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「嫌ですよぉ! 剣術の稽古で体動かすんは好きですけどね、持久走とか登山とか、じんわりしんどいのは専門外です!」
「おかしいですね。脳みそが筋肉の御仁は登山と聞けば喜ぶと教わりました」
「脳みそが筋肉の御仁て、丁寧かと思えば失礼か! だいたいオレ、インテリ青年やのに〜。もぉ、どこでそんなデマ仕入れたんですか」
「学生時代、山岳部の方々が言っていたのです。登山という二文字のみで心が躍ると」
「そら山岳部ですからね! てか、八雲せんせに学生時代があるんですか!? ぜんっぜん想像できへんなぁ……」
うーん、と虎丸は顎に手を添える。
大阪を発つとき編集長に正体不明と聞かされていたせいで、謎に包まれた人物という印象は強い。
人目を避けながら小説を書いて暮らす隠者や、または世捨て人のような作家を思い描いていたのだ。
なんとなく自分や紅よりは年上だろうとは予想しているが、年齢もよくわからない。ずっと今の姿のまま生きていそうである。
八雲のまとう雰囲気や身の回りに起こる怪奇現象を思えば、隠者の印象はあながち間違いではない気もする。
このタカオ邸自体、童話かそれこそ幻想文学にでも登場しそうな建物だ。
人里から離れた山の麓。人ではない使用人が働き、謎の無名作家たちが暮らす洋館。持ち主は目的のわからない大金持ち。並べ立てるだけでも現実感に欠けた場所である。
「同人雑誌『新世界』は、東京帝国大学の文芸部──いわゆる文学同好会ですが、元々は私がそこで作った小冊子なのです」
「へぇ~! 信じられんことに、まともな経緯で生まれたんやなぁ……。大学の文芸部かぁ。あ、それで新世界派は作家仲間を部長、部員って呼び方してるんですね」
「はい。名残というやつです。紅のように大学と無関係の部員もおりますが」
「ふうん、まぁ、そうかぁ」
帝国大学には男子しか入学できないので当然なのだが、虎丸は曖昧に返事をする。
茜に話を聞いて、性別不詳だった紅がはっきり女子だと判明したので、つい意識してしまうのだ。
男だとか女だとかこだわる必要はないと殊勝なことを言った手前、あまり騒ぎ立てるわけにはいかない。だが、それはそれとして同世代の異性であれば気になる年頃である。
気持ちに嘘はなくても、八雲のように興味がないとは言い切れそうもない。
「あかん、あかん。あんまり考えんとこ」
「はい?」
「いや、こっちの話です。ていうか帝大出身って。八雲先生、さらっとエリィトやないですか!」
「中途退学ですよ」
「え、なんかやらかしたんです?」
「やらかしました」
「……真顔で肯定されると怖くて聞かれへーん」
また少しタカオ邸の彼らについて知れたのは、虎丸にとって嬉しいことだ。
しかし、である。
話を戻すと、とにかく今日はどうしても登山らしい。
八雲の言うことなのでわかりにくい冗談の可能性もあるかと思ったが、どうやら本気のようで使用人に水と防寒具を頼んでいた。
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