後輩

1/1
前へ
/13ページ
次へ

後輩

 楠部のマンションを出てから、大束のマンションに寝泊りするようになった。大束が車で送ると何度も言ってきたが、そこまで甘えるのは流石におかしいだろう。電車で通うと何度も押し問答して、最寄り駅が恵比寿駅になった。  通勤もそうだけど、泊まった初日、ネカフェに行こうとしたが、大束に引き留められた。 『金、返すんだろ?ここで無駄金使ってどうすんだ』  とは言われたが、完全に居候の身。本人には聞けなかったので、そっとスマフォで大束のマンションを調べた。  一ヵ月の家賃が、俺の給料数ヶ月分。しかも大束は入居時、マンションは購入したと言う。楠部と同じ、金に不自由しない身分の同期。じゃあ俺はと、己を振り返り、実家すら頼れないことに気がついて、愕然とした。  大束は「やめろ」「ここにいればいいだろ」「遠慮することはない」……くどくど言われた結果、ゲストルームが俺の仮住まいとなった。  大束と同じ屋根の下、暮らすようになってから、彼の意外な一面を見るようになった。  生活感の欠片もない部屋だと感じた空間。自炊とか絶対してないんだろうなと朝起きたら、朝食が用意されていた。  大束はチェック柄のエプロンをして、慣れた手つきで目玉焼きを作っていたから驚いた。聞けば普段、調味料や料理道具は棚に仕舞っているらしい。整理整頓され過ぎて、生活が見えなかっただけだった。 『自信ないけど』  ぎこちない笑みを浮かべて、盛り付けられた皿を出された。目玉焼きにサラダ、ミニトマト、ウィンナー。食パンはキツネ色に焼かれて、紅茶のティーカップが並べられていた。  一口食べて、美味しい。  独り言のように呟いただけだったが、大束は顔を綻ばせていた。彼の自然な笑顔とかも見たことが無かったので、これも意外だった。  楠部と同居するマンションでは、ほとんど彼が、料理を作っていた。俺がキッチンに立つのは、カップラーメンに、お湯を注ぐ時ぐらい。楠部の手料理もそうだけど、大束の料理、俺には絶対にできなかった。  お金持ちで、イケメンで、料理上手。 大束は口うるさくて、親切が時々、度が過ぎていると感じる時もあるけど、世間から見れば、非の打ち所がない男だろう。  エプロンを脱いで、自然と向かい合うように食事をする大束は、いつものように『部屋には入らないでくれ』と念押しした。 『入らないよ』  初日から言われたのが、部屋のどこを使ってもいい。ただし、私室には決して入らないで、だった。 自分の部屋を何度も『汚い』と言う男に、その度に『入らないよ』と返事をした。  こっちは居候させてもらっている身。最低限、大束もプライベートは線引きしておきたいんだろう。 『本当に汚いんだ。ここは人が来るから、綺麗にしているけど。古柳が見たら、絶句する』 『そんなにかよ』 『ああ、もうすぐ掃除するから』  朝食をしっかり取って、エレベーターに乗る。エントランスまで付いて来る大束に、手を振って、いってらっしゃいと見送られる毎日。  スマフォに毎日残る着信履歴を無視して、電車に乗った。 「定時後、そんなに時間取らないから、話があるんだ……いいかな?」  昼休み、俺はランチから帰って来た日高愛美に、声をかけた。たっぷりとグロスを塗った口角が上がった。 「今日は予定が入ってて、でも用事はすぐ終わるんで!その後でも良いですか?」  艶々した黒髪に、大きな瞳。今日、着ているベージュ色のニットのワンピースが、日高愛美に良く似合っていた。仕事で声をかけるのも躊躇うぐらい、綺麗だった。 「うん、ありがとう」  愛想の良い笑顔に、胸をなで下ろした。声をかけるフレーズを、昨晩から、大束のマンションで何度も復唱した。  日高愛美に、気持ちを告白したい。  楠部への、借金の清算を考えるうちに、気持ちが高まっていた。まず断られるだろう。けど、それで良かった。彼女が、俺にきっかけを与えてくれた。彼女への好意が、楠部からの自立を決意させてくれたんだ。  やり直すんだ、自分は。  ずるずると流されるまま、ここまできた。でも、それも終わり。借金を返しながら、地に足を付けた生活がしたい。 「え~、お話ってなんですか?……知りたいな」  首を傾げると、さらりと黒髪が揺れて、ドキドキした。 「……その時ね」 「じゃ、楽しみにしてます!」  明るい笑顔に、こっちまで笑みがこぼれた。  ……定時を三十分過ぎたところで、日高からメッセージがきた。 18:36 用事終わりました~。今エントランスにいるんで、上がってきます! 18:36 いいよ、俺がそっち行くから  まだオフィスには半分ほど、人が残っていた。同僚がキーボードを叩くなか、告白なんかできない。  エレベーターに飛び乗ると、階のボタンを押す指が震えていた。エントランスなら近くのカフェに……誰がいるか分からない。少し歩くけど、外のカフェで……どこで告白しようか、心臓がばくばくとうるさかった。  今日に限って、エレベーターは途中で止まらなかった。開いて、エントランスに足を踏み入れた――日高の姿を探す前に、体が硬直した。  スタイルの良い長身。見慣れたイタリアンスーツに、これまた見慣れた黒いコートを着た男。 「……聰一郎?」 「あ、古柳さん!お疲れ様です!」  聰一郎の近くにいた日高が、声をかけた。にこにこしながら「すいません~。来てもらって」と頭を下げる。  可愛くて、明るくて、礼儀正しい後輩。  どうして彼女が、聰一郎と一緒にいる。 「朔、お疲れ様」  二週間前に、マンションを飛び出して以来だった。普段通りの上品そうな笑顔を作り、俺の肩にコートをかけた。 「寒いよ、ここ」 「あ、の」 「も~、イチャつかないで下さいよぉ~」  日高の言葉に、体に震えが走った。  どういうことだ。彼女の気安い口調に、ぐるぐると脳内で、はてなマークが旋回した。 「あはは。日高さん、いつもありがとう」 「いいですよ!楠部さんのお役に立てたんですから」 「約束は守るからね」  親し気に、俺よりも――聰一郎と日高の会話は、以前から知り合いのような、気安い態度だった。 「約束」「条件」「ありがとうございます」「助かった」……俺そっちのけで交わされる会話に、足元が崩れていくようだった。 「……な、なん、で?」  信じられない気持ちで、告白するはずだった後輩を見た。可愛らしく首を傾けた彼女は、グロスを塗った唇を開いた。 「楠部さんとお約束したんです」  ここに客先常駐が決まり、出勤するようになった頃、楠部に声をかけられた。  恋人が働いている。  彼が心配だから、どんな様子か定期的に報告して欲しい。  代わりにお礼はする……ピンク色の唇から出てくる言葉を、どこか遠く感じた。 「それで、希望する会社に転職させて頂けることになったんです!本当にありがとうございます、楠部さん!」 「新しい場所で、頑張ってね」 「はい!」  日高が愛想よく接していたのは、楠部に俺の様子を報告するため。態度に勘違いした俺は…… 「プ、プロ彼女っ、て……前」 「え~、恥ずかしい!覚えてたんですかぁ!あれ、冗談ですよぉ。プロ彼女とか古いじゃないですか、もうそんな時代じゃないです!だから私、ちょっとでも上を目指したいんです!」  大きな丸い瞳を輝かせた後輩を、ぼんやりと見つめた。転職の口利きを条件に、情報を渡していた彼女。  礼儀正しくて、仕事に一生懸命で、でもちょっと気分屋なところがあって、俺を尊敬してるって……ああ、全部、演技だったのか。 「古柳さん、いつも優しくて、私にもいろいろ教えて下さって……控えめですよね、恋人はいないって、私に仰ったんですよ」 「朔は恥ずかしがり屋さんなんだ」 「え~、なんですか、それ!彼氏のことならなんでも分かってるみたいな!」  きゃーきゃーはしゃぐ日高愛美が、目を見開いた。 「古柳さん!そう言えば、お話って何ですか?」 「……え、っと」 「古柳さん、以前、残業に付き合って頂いて……今日、サプライズみたいになりましたね!」  ピンク色の唇から出てくる言葉に、頭がクラクラした。思わぬところで、恋人同士を鉢合わせさせたと喜ぶ彼女に、閉口した。  恐ろしくなって、楠部を見ると、彼は上品な笑みを取り払い、無表情になっていた。  日高愛美の報告から、俺が好意から、彼女に良くしていることを――全部、お見通しだった。学生時代から、俺はずっと楠部の手のひらで、転がされている。 「日高さん、ありがとう……朔と話がしたいんだ」 「あ、はい!邪魔者は消えまーす!」  無邪気な笑顔で、日高愛美がエレベーターに飛び乗った。扉が閉まる直前、嬉しそうに手を振られた。  待って、話がある、俺は君のこと  静かにエレベーターが上昇した頃、肩に触れられた。寒さと恐怖で、呼吸が荒くなっていた。 「朔、大束のマンションにいるよね?」 「……」 「あいつは危険だ。帰ろう、マンションに」  絡み付くように、長い腕を回される。指が首筋に食い込んでくるから、呼吸が更に苦しくなった。 「帰ろう、朔。大束に近寄っちゃ駄目だ」 「……楠部」  何言ってんだ。お前の方が何倍も危険だ。大束は俺を更生させようとしているのに。 「お、俺、お前に、金返したいんだよ」 「……いいよ、金なんか返さなくて。だから帰ろう」 「なんでだよっ、それじゃあ同じことだろう?!」  マンションに帰れば、きっと同じことをしてしまう。俺は際限なくガチャを回して、ベッドでセックスして、また金を使って…… 「朔、お願い、そばに居て」  拘束するような抱きしめ方に、もがいた。楠部は懇願するように「戻ってきて、お願い」と耳元で囁いた。 「真面目になる、お、お前に金返して、真面目になるんだよっ」 「お金なんか返さなくていい。ねえ、帰ろう。一緒にいて……お金は朔が好きなだけ、使っていいから」  耐え切れなくて、楠部を突き飛ばした。  それじゃあ、同じことなんだ。  このまま、同じ場所をぐるぐると周回し続けるのか。  ずっと楠部とあのマンションで、あの日常に戻るのか。  嫌だ、戻りたい、やり直したい、楠部と本の貸し借りをして、時間を忘れるまで語り合った日に、戻りたい。 「駄目なんだよ、それじゃあ……駄目だよ……」  俺は楠部が、友達として好きだった。イケメンで、頭が良くて、本の趣味は全然合わなかったけど、一緒にいて、居心地の良い相手だった。  もう一度、あの頃に戻れたら  同じ立場に立って、楠部と向き合いたかった。 「やり直したい……お前と、友達だった頃に、あの頃に戻りたいんだよっ!金、返さなきゃ、戻れないんだ!」  驚いたように名前を呼ばれる。腕を伸ばされて、玄関に向かって、走り出していた。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1245人が本棚に入れています
本棚に追加