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番外編〜楠部聰一郎〜
ターゲットから情報を聞き出す、スパイの手口――非常に興味深く、同時に、これで朔を自分のものにできるのではと、頭を巡らせた。
スパイは政治の中枢にいる、機密保持者に接触を図る時、必ずプレゼントを渡すそうだ。最初は軽い食事を奢り、相手に誠実でスマートな印象を与える。
そこからボールペンやハンカチ、些細な――相手が特別、欲しがっていないプレゼントを贈る。
贈り物が常時的なものになると、図書カード、チャージされたプリペイドカード、些細なプレゼントと一緒に、万単位の商品券を渡す。
あなたにお金を贈ります、と言葉にするような、無粋なことはしない。美味しいお菓子だったから、一緒に食べないかと、プレゼントに商品券を忍ばせる。
相手が黙って受け取るようであれば、こちらの手中に収まっているようなものだった。そこから商品券は現金に変わる。一万円、三万円、五万円、十万円……相手はいつしか、現金を待ちわびるようになる。
そこで初めて、対価を求めるのだ――古典的かつ安直でありながら、人を籠絡させるには、もっとも効果的なやり方だとあった。
朔はまさか、友人だと思っていた男が、罠を仕掛けるなど疑う性分ではない。また、もう一つ、仕掛けていた罠に彼はまんまと嵌まり、苦しんでいた。
茶封筒の十万円を渡した時、あっさりと落ちた。
『欲しい……ほ、欲しいです。お金下さいっ、お金、下さい!』
喧騒の店内、朔はテーブルに額を擦りつけるように、頭を下げた。この世で最も愛おしくて、頭の中で何回、犯したか分からない男。
追い詰められた表情に――彼を好きにできるのだと、興奮した。頭の中で、何度も犯してはめちゃくちゃにした。夢想が、やっと実現する。
まだ太陽が高い昼間。俺はテーブルの下で勃起させながら、朔の股間を撫でた。俺が何を欲しているか、分かっているよね?
朔は怯えと諦めが混じった表情をしていた。いつか妄想した、組み敷いた朔の表情そのもので――ぞくぞくして、その場で射精するかと思った。
犯したい。
衝動的に公衆トイレに連れ込もうとして、冷静になった。彼にトラウマは植え付けたくない。
俺の言う事を聞けば、お金はいくらでもあげる。セックスも優しくする。そう、教え込まなくては。
むしゃぶりつきたくなるのを堪えて、朔の腕を引っ張った。
「――悪い、待たせたな」
都心のオフィス街。様々なカフェがあるが、大束に指定されたのは、ホテルのラウンジカフェだった。
全面、ガラス張りのラウンジは、太陽の光が優しく降り注いでいた。すぐそばにある大使館の屋根も見える。周囲に植えられた植物は、さぞかし目が癒されるだろう……待ち合わせた男の顔さえ見なかったら。
「申し訳ない。著名な投資家様を待たせるなんて」
大束は大仰な仕草で、頭を下げた。余裕のある者だけができる、媚び諂った態度。テーブルに置かれたコーヒーカップを投げ付けてやろうか。怒りで、手が震えていた。
「……手短に。これから会食があるんだ」
「お前をよいしょしてくれる、経団連の爺さん達とか?」
「どうでもいいだろう。早くしろ」
薄気味悪い笑みを浮かべた大束が、紙袋を差し出した。
「コート、返すよ」
――躊躇ったのは一瞬。紙袋をひったくると、確かにコートが入っていた。あの日、朔を迎えに行った日の、黒いコート。取り出した腕が、ぶるぶる震え始めていた。
「ああ、ちゃんとクリーニングには出したからな。いいもん着てるよなぁ」
「……」
「ヴァルディターロだよな?……あいつも同じコート着てるから、すぐ分ったよ」
「――朔は?」
俺が彼に、プレゼントしたコート。同じブランドで作ったコートだった。この男が返しにきた事実に、足元が崩れ落ちてしまいそうだった。
「あ、私もコーヒーで」
「――朔は?」
ウェイターに注文を済ませた大束に、再度訪ねた。あれから毎日、何百回と電話をかけた。メールもした。
居場所は分かっている。大束のマンションにいるのだ。だけど
「朔が、お前のマンションから出て来た形跡がないんだが」
「気持ち悪いなぁ。見張ってんのか?」
意に介した様子はない大束は、腕時計を見ていた。年季の入ったブランパンを覗く男は「こっちも時間無くてな」と言った。
「だったら早く答えろ。朔は?職場に出勤していない。昨日、退職届とセキュリティカードが届けられたと――」
「あ、これ書いてくれ」
質問には答えない大束が、ビジネスバッグから封筒と万年筆を取り出した。目の前に出されたのは、薄っぺらい紙。小切手だった。
「……なんだ」
「朔がお前に借りてる金、俺が返すから。額、書いてくれ」
――手元のカップを投げつけようとしたところで「お待たせしました」とウェイターがやってきた。
「ありがとう」
にこやかな笑顔で、ウェイターにお礼を言う大束からは、余裕が滲み出ていた。おそらく、長年欲していたものを手中に収めた愉悦に浸っているのだ。
「……ふざけてるのか、お前」
「怖いなぁ」
茶化すような口調で、大束はカップに口を付けた。こいつは確信している。自分に利があるのだと。片頬を歪めた笑みを浮かべて……殴り付けたい。
だが、ここで問題を起こせば、朔に会うどころか、社会的地位まで失うことになる。腹が立つほど優雅な仕草で、大束はコーヒーカップを手にしていた。
「朔はさ、真面目になるってよ。お前に借金を返し」
「――おい。朔?お前が朔と呼ぶな」
我慢できなかった。ぎりぎりのところでカップを手に取り、コーヒーを飲み下す。苦みは後悔に変わる。
あの時、追いかけて捕まえておくべきだった。
すぐに戻って来ると、居場所はここしかないと――俺なしでは生きられないようにしたはずだったのに。
目の前にいる男を、もっと警戒するべきだった。学生時代から、ハイエナのように、朔の周囲をうろついていた。小説を一切読まないらしく、合わないと、朔自身が避けていたのもあり、気にも留めていなかった。
――虎視眈々と機会を窺っていたのだ。かつての自分と同じように、朔が罠に嵌まるのを、涎を垂らして待っていた。
ケダモノ。
空気を震わせるような、噛み殺した笑いだった。目の前に座る、不敵な表情を浮かべた男が、カップを置いた。
「朔は俺のこと、将って呼んでくれるよ。俺の下で、たすく、たすくって言うんだ……可愛いだろう?」
「――お客様?!」
ウェイターが足早に駆け寄って来た。何だと不審になったら、手元にコーヒーが飛び散っていた。カップを置いた拍子に、中身をぶちまけてしまったらしい。
「すぐに新しいものをお持ち致しますね」
「……申し訳ない」
「おいおい、小切手が汚れる。気を付けてくれよ」
大束が、さっとテーブルの小切手を手に取った。こいつの動作、全てが忌々しかった。名前を呼ぶ?朔が?将と?俺の下で……
怒りと嫌悪感で、眩暈がした。
……きっかけは些細な会話だった。
大学のサークルで、初の顔合わせの日。たまたま隣の椅子に腰掛けた男。古柳朔と、自己紹介をした彼は、日本文学が好きだと言った。
洋書ばかり読んできた自分は興味本位で――その時はまだ、彼に特別な何かを感じることは無かった。強いて言えば、顔が整っているなとか、それぐらいだったはず。
『え……武者小路実篤、田山花袋、夏目漱石、たくさんいる。そっちは?』
『俺?ジャン・ヴォ―トランとか好きだな』
ヴォ―トランと聞いて、彼は首を傾げていた。そのままなんとなく、本の貸し借りをして別れた。
次に会った時、本の感想を言い合って、また貸し借りをして――次第にお互いの部屋を行き来しては、小説の話で盛り上がった。
小説が原作の映画を観に行こう、撮影場所に行きたい……少しずつ、深まっていく友情。
いつしか、朔に会えるのを待ち遠しくなっている自分がいた。
でもまだそれは友情の範囲だった。朔が俺の指向に気づいている様子も無く、関係いつでも会える、気楽な友人の一人だった。
自分には、取り巻きといえる友人は大勢いた。生まれた場所から、自分は裕福で、嫌という程、恵まれていること。ある一定の人間が持つ「育ちの良さ」を自然と身に付けていることを自覚していた。
人は群がってくる。
俺が、交際相手に相応しい相手かと。または上の階級に引き上げてくる人間であるか。家柄、学歴、顔、言動……ありとあらゆるものが、品定めの対象になる。
だから、品評されるだけの自分になろうと――表面だけを取り繕った、楠部聰一郎が出来上がった。
外面だけを、社会的立場に見合うよう、コーティングしていく。それは「グルーム」の主人公、ハイムのように。
ハイムは妄想と現実の区別が付かないが、俺もそうだった。
社会が望む、楠部聰一郎。
両親が望む、聰一郎。
同じ家柄に生まれた学友達が望む、楠部。
これが自分なのか、演じているのか。常々、曖昧な境界線に立っていた自分……受け入れてくれたのが、朔だった。
アメリカの付属高等学校から帰国し、初等部から顔なじみであった学友には、決して話せなかった。いつ、足を引っ張られるか分からないからだ。朔は完全な外部生。大学からの入学だったのが、気を緩ませた。
『継ぎ接ぎなんだよ』
朔は俺を否定せず、皆、そうだよと言った。中身まで、見る余裕がない――心に、すっと入ってきた言葉。
彼は、俺を受け入れてくれるかもしれない。
――仄かな期待は、すぐに打ち壊された。
朔は異性と付き合いたがっていた。虐待と言える家庭環境で、勉強だけを強いられてきた彼。思春期に体験するような、幼稚なときめきを、読書会の女に向けていた。
このままでは告白したとして、彼は言うだろう。
『俺、偏見とかないから。友達としていよう』
この持て余した熱情をどうしたらいい。朔への甘い恋愛感情は、暴力的な衝動に変容した。それは獣じみた劣情だった。
絶対に、手に入れる。
異性と手を繋いだこともないという朔。手をつないで、キスをして、セックスをするのも、俺だけでいい。
友人として振る舞いながら、妄想の中で犯した。
『可愛いね、朔は可愛いよ』
手中に落ちた彼の服を剥ぎ取った。借金が頭にちらついているのだろう、朔は抵抗しなかった。体を震わせて、なすがままの彼をベッドに押し倒した。
妄想で、人を殺したハイム。
でも俺は、現実になった。
『そうい、ち、ろうのおちんちんっ、お、おくぅ、あ、ああっ、あたるっ』
『っ……好きっ?俺のこと、好きっ?』
『っあん、すき、ああっ、好きぃ』
朔のなか、ぎゅうぎゅうに絡み付く襞が気持ち良くて、息を吐いた。ペニスの先があたる場所。しつこく突くと、朔は背中をしならせて、射精した。
『きもち、いぃっ、いいっ、そういちろぅ、きもちいいよぉ』
異性に抱いた甘い恋情を、快楽で塗り潰した。時間をかけて、体に教え込んだ結果、無意識に股を開くようになった朔。呂律の回らなくなった口で、何度も『気持ちいい』と泣く彼を貪った。
体を征服すれば、湯水のように金を与えて、頭をおかしくさせた。何も考えられないように、金を使えば使うだけ、俺から離れられなくなるのだから。
朔の本来、備わっていた良心がうずくたびに――お金、使っていいんだよ。
カードを握らせ、ギャンブルを止めなかった。歯止めとなるような友人達に、縁を切られた彼は、どつぼにはまっていった。
これでいい。
金を使わせては、セックスを繰り返す。ちゃんと俺とやれば、お金が貰えるんだと学習した彼は、ベッドで挿れて挿れてと、甘えるようになった。
おちんちん挿れて。奥、突いて。好き、好き、そういちろうが好き。
何度も言わせては――洗脳に近い行為。だけどこれで、彼もいつか、俺に気持ちを向けてくると、信じていたのに。
「大束。小切手を」
手を出すと、目の前に座る男が、安堵したように頷いた。
「やっと書く気になったか……いくらでもいいぞ。あいつ、いくら借金あるんだ?」
朔は、俺がいないと駄目になった。体も頭も、俺がいないと、駄目なんだ。
――ビリッ
「は?」
目の前の男が、目を見開いた。
朔には、俺がいないと駄目なんだ。そうなるように、彼を嵌まらせた。朔が、こんな男で満足するわけがない。
小切手を千切っていく。紙吹雪のサイズになると、テーブルにパラパラと散った。
「――金は受け取らない。朔は返してもらう」
「はぁ?朔が、お前から自立するって言ってんだよ。だから俺が立て替えるために持ってきたのに……おい、楠部」
「朔はな、俺がいないと駄目なんだ」
そうなるようにした。窒息してしまいそうな、甘ったるい綿菓子で、彼を包んだ。甘くて、温かい場所にいればいいよ。お金を上げる、何でもあげる。
だから、俺を受け入れて。
「駄目って……」
大束は吹き出した。我慢できないという顔で、口を手で覆っていた。
「……何がおかしいんだ」
「お前だろう?朔がいないと駄目なのは」
大束は涙が出るほどおかしかったのか、目元を拭っていた。
俺が?朔がいないと駄目になるのは、俺?
「……朔を返してくれ」
「朔はお前から自立するんだとよ……できるもんなら、やってみろ」
笑いながら、大束は立ち上がった。
「話にならねーな……それじゃあ、ここは俺が払っとくよ」
「大束……お前を潰す」
男は大仰に肩をすくめた。
「幸い、投資家様の世話にはなっていないんでね」
「……朔は俺がいないと、生きていけないんだ」
彼を借金漬けにしたのは俺だ。無制限に金を欲し、誘うように、股を開くようになった朔。あんな状態にした彼が、他で生きていけるわけがない。
奪り返さなくては。
今度は外に出さないで、もっともっと、堕落した生活に彼を沈めよう。そうすれば、彼は間違って、外に逃げ出すことは無くなる。
まず、接触の機会を。
芽生えた自立心とやらを摘み取って。
捕まえる計画を立てていかなくては。
血が上った頭は冷え、巡り始めた。こちらを見下ろした男が、ため息を付いた。
「だから、お前だよ。朔がいないと生きていけないのは」
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