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出会い
楠部と出会ったのは、大学に入学したばかりの浮ついていた頃。まだ十九歳の誕生日を迎えていなかった俺は、両親から離れた一人暮らしに、開放感を味わっていた。
中庭に、サークル勧誘のテントが張られ、チラシが舞っていた。ボート、水泳、茶道、模型……理工学部を選択した俺は、女子の少なさにショックを受けていた。
ここでサークルに入らなければ、俺のような人種は一生、女の子と付き合えないかもしれない。
パステルカラーのスカートを履いて、髪の毛を茶色に染めた、お洒落な女の子と出会うには。
女子大を歓迎するインカレサークル、ヤリサーって噂のテニス部か……ハードル高過ぎ。自然に女の子と出会えるサークルは無いかと、うろついていた時だった。主張しない、小さな声が、喧騒の中から聞こえてきた。
読書会です。
俺はバッグに入れていた文庫本を取り出した。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」。俺にとって小説は救いだった。
ゲーム、携帯、漫画……受験に無駄だと、娯楽を取り上げられて、唯一、手元に残ったのが小説だった。制服を着ていた学生時代、国内の作家を貪るように読んだ。片手に持ち、恐る恐る近づいたら、あっさり加入できた。
新入生を歓迎する、一回目の読書会に、楠部は参加していた。講義室の隅で、新入生を含めた数人が、椅子を円形にして、自己紹介を始めた。
『楠部です。楠部聰一郎と言います。学部は法学部で、主に海外の作家を読んでいます』
まだ十代だった俺達。なのに、楠部は他者を圧倒する威厳というか、落ち着いた、堂々とした態度だった。
小さな卵型の顔に収まったパーツは、不格好なものは無く、全てが美しかった。柳眉を描いた額に、どこか憂いを帯びた明眸。すっと通った鼻筋の下に、形の良い唇が上品な笑みを作っていた。
誰かが――その場にいた全員だったかも。感嘆したように溜息をついた。
バランスと顔のパーツが、奇跡的なコラボレーションをした男。美の女神に愛されているとか、陳腐なワードが頭をかすめた。
完成された美が、彼に力を与えているのか。サークルの先輩達含め全員が、彼の一挙一動に注目していた。
こんな風に生まれていたら、俺も親に殴られずに済んだのかな。
惨めな妄想に浸りながら、楠部の後に自己紹介をした。
『古柳朔です。学部は理工学部で、日本文学が好きです』
後から、名前や好きなジャンルを忘れられることが多かったのは、楠部のせいだと、今でも思っている。
周囲の視線を、いつでもどこでも、かっさらっていく男。
ひっそりと肩を落とした。読書会は他大学の女子も来るらしいが、みんな楠部に注目するだろう。女の子と自然な出会いが、隣に座った男のせいで消滅した。
恨めしい気持ちで、隣の美男子をちらちら見ていたら、目が合った。
『日本文学って、誰が好きなの?』
『え……武者小路実篤、田山花袋、夏目漱石、たくさんいる。そっちは?』
『俺?ジャン・ヴォ―トランとか好きだな』
聞いたことも無かった。楠部はフランスの現代作家だと教えてくれて、反対に夏目漱石を一冊も読んだことがないと言った。高校でこころ、やるだろと言ったら、帰国子女だと言う。
話せば話すだけ、ジャンルが全く合わなかった。だけど逆に新鮮だった。楠部も同じ気持ちだったのか、会うたびに本の貸し借りを行うようになった。
……あの頃はまだ純粋な、友人として健全な関係だったと思う。ある時、楠部が考えあぐねたように言った。
『君の好きな小説って、いつも主人公や周囲は苦悩しているよね』
『……共感ってか、苦しんでいるのを見たら、ああ、俺だけじゃないんだなって思うんだよ』
『それはどういうこと?』
ぽろっと、親から殴られてきたこと。なんとしてでもこの大学に合格しろと、スパルタ教育を受けてきたこと。文学だけは娯楽だった……もうその時はかなり気を許した関係で、お互いの家を行き来するようになっていた。楠部は驚愕し、背中を優しく擦ってくれた。
『辛かったね』
過剰に憐れむでもない、自然と寄り添う楠部に胸が熱くなった。生まれも育ちも違う同性。だけどこれって、親友と言ってもいいんじゃないのか。
絶版や電子書籍になっていない小説は文庫本で貸し借りし、他はネット上の本棚共有サービスに、二人でアカウントを作った。楠部は日本文学を読み漁り、俺は海外作家の面白さに、夢中になった。
でも一つだけ気がかりだったのは、楠部が好きだと言った作家、ジャン・ヴォ―トラン。特にこれが一番のお気に入りだと貸してくれた「グルーム」に、首を傾げた。
『なぁ、これ、面白いか?』
『うん、俺もこの主人公には共感できるんだ』
ますます訳が分からなくなった。グルームの主人公は、端的に言って、社会不適合者だった。上手くいかない現実に耐え切れなくて、妄想の世界に浸っている。
『どこらへんが?共感できんの?』
『中身がないところ。主人公は妄想の世界にいるけど、その妄想もどこかで見たような、陳腐で薄っぺらだろう?継ぎ接ぎで見た目を取り繕って、肝心の中身が空っぽなんだよ』
自虐的に笑ったのが、珍しかった。こいつが薄っぺら?中身が空っぽ?親しくなるだけ、非の打ち所がない男だと、嫉妬する気持ちも湧かなくなっていたのに。
親は資産家。父親は日本を代表する企業のトップで、自身は起業を考えている真っ最中。元女優だったらしい母親似の美貌は近寄り難く、それが気さくな態度とギャップがあって、ますます人気――
お前は薄っぺらい人間じゃないよと、言いたかった。だけど楠部自身がそう思っているなら、簡単に否定もできなかった。
『継ぎ接ぎって、皆そうじゃねーの。なんとか社会が望む人の形して……でも継ぎ接ぎの中身はちゃんとあるよ……継ぎ接ぎばっかに目が向いて、中身まで見る余裕がないのかも……』
俺に寄り添ってくれた楠部を、俺も慰めたい。おっかなびっくり言葉をひねり出すと、楠部は何故か、目を輝かせていた。
『そうかな?』
『そうだよ』
ぱっと花が咲いたように、親友が笑った。美形だから笑うだけで、室内の空気が浄化される。
俺達は基本、本の貸し借りをして、感想を言い合って、食事をして、出かけて……あの頃は友達だった。
いつからだったっけ。楠部が会うたびに、必ずプレゼントを渡してくるようになったのは。
最初はコンビニのお菓子。人から貰って余ったからと、五百円分のクオカード、ギフト券……最初はラッキー程度だったのが、万単位になったところで、躊躇うようになった。
『気にしなくていいよ。貰い物だから』
会うたびに渡される、数万円分のギフト券。いつの間にかそれが当たり前になって、待ち望むようになっていた。
バイトをしなくても、月十数万円分の収入が入っていた頃、俺が決定的に転落する出来事があった。
成人式も終わり、大学生活も半ばに差し掛かっていた。楠部と変わらず本の貸し借りをしていたが、彼は会社を起ち上げて、キャンパスの有名人となっていた。
でもいくら人が群がっても、いつも俺に会いに来てくれたのが嬉しくてしょうがなかった。
ある時、講堂で同じ授業を取る友人の篠田が、話しかけてきた。
『古柳、オンラインカジノ知ってる?』
見せられたスマフォの画面に、首を傾げた。キラキラしたフレームデザインに、カラフルな羅針盤みたいな道具が映し出されていた。ビビットカラーのログインボタンが目立つところにあり……見た目、安っぽいデザインだなと、最初は引く気持ちすらあった。
ギャンブルなど一度も経験が無かった俺は、つい大丈夫かと聞いた。
『それが結構、当たるんだよ』
『これで俺、月数十万は稼いでるかな』
『家庭教師代、全部突っ込んでる』
篠田の熱弁に飲み込まれて、その場でアカウントを作った。
『試しに百円のスロットやってみたら?』
百円なら、スクラッチくじより安いか。言われるがまま回したら……
『え?!あっ、すげぇ!おま、古柳、すげぇな!』
三桁の数字に、ゼロが三つ。
二十万円に化けた。
そこから、俺の中で何かが壊れた。百円がマイナス、次に千円を投入して、千五百円に。二千円は五百円でマイナス、一万円……楠部から貰ったギフト券を換金し、オンラインカジノにつぎ込んだ。
負けるたびに、もう一回。
もう一回だ。
もう一回やれば、次は当たるはずだと、画面を叩いた。
貰ったギフト券では足りず、クレジットカードの限度額がいっぱいになった頃。ここでさすがにやばいと焦りが生まれた。
親にばれたら……実家に戻されて、殴られるかもしれない。バイトに応募し、クレジットカードをもう一枚作った。
五十万円を引き出して、一時的な返済にあてたところで、肩の荷が下りた気がした。なにも解決していないのに、ほっとして、百円が、二十万になったんだ、いけると声が聞こえた。
百円が二千倍になった。だったら一万円、投入したら……俺はスマフォの画面を食い入るように見つめていた。
三枚目のクレジットカードを作ったタイミングだった。楠部のプレゼントが変わったのは。
ギフト券と一緒に、茶封筒を手渡された。そろそろと中を覗くと、札束。ぱっと数えて、十万円はある……?ぎょっとして押し返したら、『じゃあ、持っておいて』と微笑まれた。
『持っとく……?』
『うん、預かっておいて欲しいんだ』
預かるって?どうして、何故、疑問で頭がいっぱいになった。ぎゅっと両手を握られ『預かって』と囁かれた。
『俺が信用してるの、古柳だけなんだ』
『……分かった』
『ありがとう』
十万円が入った茶封筒。三日後、構内で会ったら、また渡された。会うたびに渡される茶封筒が百万になった時だった。
楠部が返せと言わないのをいいことに、預かった金を返済とギャンブルにつぎ込んだ。大丈夫だ。
楠部に返せって言われるまでに、バイトで稼げばよい。
オンラインカジノもある。
もう一回。もう一回、スロットで。
一万円を百万にすれば、楠部にばれない。
大丈夫。大丈夫。からからになった口内で、言い聞かせた。
楠部から十万円を渡されたら、すぐにログイン。十万円が、数時間でマイナスになったら、また楠部に会いに行った。
数時間前にあった友人が姿を見せても、楠部は茶封筒を出してきた。
『預かっておいてくれる?』
『うん』
楠部の茶封筒は必ず十万円。それが時々、二十万、三十万とアップする時があった。楠部の気まぐれだと、テンションを上げていた俺はしばらくして、法則に気が付いた。
十万円がアップする時。
それは二人掛けのソファに座った時、楠部の手が、俺の太ももに置かれた。何度も撫でられて、くすぐったいと笑ったら、手が離れた。
あの時は三十万、入っていた。
出かけた先、並んで歩いていたら、自然と手をつながれた。ふざけているのだと、お返しに恋人つなぎをして、駅のホームでじゃれた日。
あの時は二十万、入っていた。
頭を撫でる、髪を梳く、肩を組む……接触がある時に、金額が増えている。気が付いてから、俺は楠部の接触を拒めなくなった。
楠部の手は、首、顎、唇の端と、どんどん大胆になっていった。最初はやんわりと拒否すれば離れていた手も、身じろぎして拒んでも、這い回るようになった。
お金が欲しい。
もうその頃には、楠部が望んでいることも察していた。でも俺達は男同士だ。入学時、期待していた女の子との出会いもなく、異性の恋人すらいない俺には、踏み出せなかった。でもやっぱり
お金が欲しい。
オンラインカジノ、クレジットカードの返済……お金が足りない。もっとお金が欲しい。
お金が欲しい。
バカラ、ブラックジャック、クラップス、ルーレット……掛け金百円から、百円さえ貰えたら俺、何倍にして返すから。この前は失敗した。でも俺はビギナーズラックで二十万にしたから。次は百万も夢じゃない。だから
お金下さい
楠部に土下座して、泣きつこうとしていた時だった。彼のマンションで、ほっそりとした長くて白い指が伸ばされた。
あの時の親友は、奇妙だった。形の良い眉を潜め、きゅっと唇を結んで真剣な顔をしているのに、熱を帯びた眼は瞬き一つしなかった。あれは……息を潜めて、獲物(カブトムシ)を捕まえようとする子どもの表情。
胸元のボタンを外され、手を入れられた。
『っ……』
思わず、払いのけてしまった。ひんやりとした指が、鎖骨を撫で上げる感覚に、鳥肌が立った。でもショックだったのは、一転して冷たい視線だった。放り投げるように渡された茶封筒。
マンションを出て、駅のトイレで確かめた。十万円だった。個室トイレで、涙が出ていた。
拒まなかったら、いくら貰えた?
皮算用する浅ましい自分が嫌だった。同時に、楠部が望んでいるものは、もっと嫌悪感があった。
気まずくなり、楠部を避けていたら、借金は膨らんでいった。時給千円で稼ぐバイトで得た数万円は、ギャンブルに消えた。
三枚目のクレジットカードが使えなくなり、自動契約機で借りた五十万円も底をついた。借金は総額で三百万。
楠部からお金が貰えないから……震える手で、親友に電話をした。
相談したいことがある。ファミレスに来て欲しいと言ったら、すぐ行くからねと優しい声だった。いつもと変わらない穏和な声音に、ほっとした。
楠部が望んでいるもの。
それはもしかしたら、俺の勘違いかもしれない。キャンパスの、若き成功者。相手には困らないはすだ。俺のような同期に拘る方がおかしい。
ファミレスの床に土下座して……金を借りれたら、今度こそギャンブルをやめる。俺は楠部を待つ間、うっすらと傷がついたグラスを見つめていた。
『古柳』
『楠部……』
ファミレスにやってきた親友はスーツを着ていた。がやがやと雑多な店内、細身のスーツは光沢があり、彼だけ別世界の人間だった。
『良かった……この頃、会ってくれなかったから』
『……』
楠部はぎゅっと俺の手首を掴んだ。親指で静脈辺りを何度もなぞられた。周囲の音よりも、心臓の音がうるさかった。
『く、楠部、俺っ』
『うん、どうしたの?』
手首をがっちり掴まれた状態で、洗いざらい話した。オンラインカジノにハマって、クレジットカードを何枚も作ったこと。
楠部に預かってくれと頼まれた金に手を出してしまったこと……テーブルに額を擦り付けた。
『楠部、ごめんっ。本当にごめんっ。借金がやばくて、だからその』
『――借金、全部でどれくらい?』
顔を上げると、うっとりと微笑んだ美男子がいた。目を細めて、今か今かと獲物を待ち望む口は、大きく弧を描いていた。
『三百万……』
『俺が全部、返してあげようか?』
『え……全部……?』
『うん。ねぇ、お金、欲しくない?』
白い歯科矯正された歯列から、薄紅色の舌がのぞいていた。楠部の声はいつも通りの、優しくて穏やかな声だった。
『欲しい……ほ、欲しいです。お金下さいっ、お金、下さい!』
もっと欲しい。本当はもっとギャンブルがしたかった。スロットを回して当たった瞬間、バカラで賭けが当たった瞬間、お金が倍になるよりも、あの一瞬を欲していた。
再び頭を下げると『じゃあ、その代わり』と楠部が囁いた。
『俺が望んでいるもの……分かってるよね?』
『……』
『ねぇ、古柳?』
『あっ……』
ファミレスのテーブルの下。温かいものが股間にあたる。恐ろしくなりながら下を向くと、革靴を脱いだ楠部の足先に撫でられていた。ひゅっと、喉が締まり、呼吸がワンテンポずれた。
『ホテル、行こう』
『あ、のっ』
『あ、お金、返してからね』
天使みたいな顔をした男が、腕を伸ばした。無遠慮な指が、胸元に這うのを――俺の体は動かなくなっていた。
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