缶コーヒー

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缶コーヒー

 ブルーマンデーとか言われる、一週間の始まり。 デスクで朝のチェックといえば、メール。開いたら早速、障害検知の報告がきていた。  文面を読む前に、テンションだだ下がり。でも仕事だと、嫌々読んだ。メールには、オーソリ(オーソリゼーション)でうちからクレジットカード会社に送るオーソリ処理に、エラーが出ているとあった。  オーソリ処理で動くのは、深夜帯のbatch……処理が上手くいかず、クレジットカード会社からのオーソリ結果を受け取れなかったとあり、後続ジョブの影響を考えて冷や汗が出た。  やべぇとデータベースを覗きに行こうとしたら「古柳さん」と声をかけられた。同じプロジェクトチームの、日高愛美の上司だった。  この人が、俺をさん付けで呼ぶのは、必ずトラブっている時。難しい顔で腕を組んでいた。 「会議室2で、至急ね」 「すぐ行きます……」  ……打合せの結果、先々月にリリースしたbatchと、オーソリ処理を行っているbatchの分岐処理に差異があり、エラーが出ていることが分かった。  これで、エラーになったとこのbatchを修正して、テスト、再リリースすればOKって話になったんだけど、そこはプログラミング言語がCOBOL。 「じゃー、古柳さん、対応お願いします」  逃げ出したい気持ちを抑えて、いつものへらへら笑いで「はい」と返事をした。  COBOLは六十年ぐらいの歴史があるプログラミング言語だけど、もはや化石とか言われるような言語だった。  年齢的に四十代でCOBOLをやっている方が少数派。だから今の二十代とか、まだCOBOLあるの?!と驚愕するレベルなんだけど……金融や銀行関係で、COBOLはまだまだ現役だった。  日高愛美の上司はCOBOLができるけど、影響範囲の対応に追われて、手一杯。一応勉強しとくかと、習得していた俺に、白羽の矢が立ってしまった。  ソースを修正しながら、テストパターンをExcelに書き出していく。作業に集中したいのに「古柳さん」と入れ替わり立ち替わり、人に呼ばれて、打合せが続いて……会議室からの帰り、壁の時計を見たら、二十一時。  夕飯どころか、昼飯も食べていなかった俺は、エントランスのカフェに走った。  ギリギリ滑り込んで(迷惑な客)、サンドイッチをテイクアウトすると、エレベーターに乗る。楠部に連絡していると、あっという間に二十四階に着いた。  上長は会議続き、リリースを任されていた室田は終わったから帰ったのか、姿が見えなかった。デスクで一人、サンドイッチを食べたらさっさと残りの仕事を――  紙袋を開けていた時、「古柳さん」と声をかけられた。  え。 「日高さん?なんで、まだいるの?!」  二十一時。新人の日高愛美が、まだデスクに残っていた。驚き過ぎて声を上げると「あの……」と目が潤んでいた。 「ど、どうしたの?」 「すいませんっ……仕事が残っていて」  頭を下げられたが、彼女は新人だ。できることは限られているんだけど。 「あの、テストパターンの結果をマクロで集計するようにって、言われてて……マクロが組めないんです」 「あー……みんな忙しかったからね。教えてもらえなかった?」 「いえ……それが、教えてもらったのにできなくて」  泣きそうな顔で言われて、俺は紙袋を差し出した。 「きつかったね……ご飯食べてないよね?これ良かったら」  腹が音を出して主張してきたけど、脇腹を抑えて黙らせた。 「……これ、古柳さんの分じゃあ」 「あ~、なんか食欲無くしてて……あ、全然食べてないから、大丈夫だよ。取り敢えずこれ食べてー、うん、マクロ教えるから」 「……いいんですか?」 「うん、隣の室田さんの席にパソコン、持ってきてくれる?一緒にやったら早いから」  泣かれると冷や冷やした俺は、できるだけ優しい声を出した。こんな時、なんて慰めれば良いのか分からない。  疲労困憊の頭を振り絞って、食べ物をあげようと雑な結論に至った。  それから隣に腰かけた日高愛美に、マクロを教えながら、自分の仕事を片付けた。時々、彼女の様子を伺いながら、質問に答えること一時間。  デスクに何か置かれる音がした。画面から顔を上げると、日高愛美が缶コーヒーを置いていた。女の子に、義理チョコだって貰ったことがなかった俺は、心臓が口から飛び出すかと思った。  目が合うと、普段から可愛い彼女が、十倍は可愛くなる笑顔を見せてくれた。 「お疲れ様です。あのっ、テスト結果、まとめられました!これ、良かったら……」 「気ぃ遣わせてごめんね。今日はもう帰って大丈夫だよ」  そう、彼女は気を遣ってくれたんだ。調子に乗るなよと、叱咤する声が脳内に響く。それでも心臓がうるさくて、そっと缶コーヒーに手を伸ばした。温かい。日高愛美からのプレゼント!缶コーヒーを抱きしめたくなった。 「あの……」  残業の疲れも吹っ飛び、内心ウキウキしていると、彼女は何か言いたげに、こちらを見ていた。黒目がちの大きな瞳に見つめられて、好意があるから照れ臭くなった。 「……相談したいこととかあったら、いつでも言ってね」  でも彼女は俺のことが好きとか、まず天地がひっくり返るくらいあり得ない話で。先輩として、まぁ嫌いじゃない、程度だろう。  キモイ下心とか見えないように、軽い感じで相談と言った。声、ひっくり返ってなかったよな。 「古柳さん……」  日高愛美の目から、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。  やばい! 「あ、ちょっと、休憩!休憩室行こっか!」  障害が起きれば、調査して原因追及。でも目の前で女の子に泣かれたら、どうすることもできない。  休憩室まで行き、椅子を勧めた。日高愛美が落ち着くまで待っていたらーー「ありがとうございます」とかすれた声だった。  慎重に聞き出すと、室田に教えられたが、上手くできず、また周囲が忙しそうだったため、声をかけられなかったと話してくれた。  大丈夫だよ、分からないのは当たり前だから。同じこと、何回も聞いていいんだから。こっちが、ほったらかしにしてたのが悪いんだよ。日高さんは頑張ってるーー思いつく限りのフォローを喋っていたら、涙目で笑顔を見せられた。 「古柳さんって、なんでもできて、周囲に頼られてて、尊敬してます」 「頼られてるわけじゃないよ。使われてるだけだって」 「そんなことないです!古柳さんがいなかったら、この現場回ってません……私、こんな人になりたいって考えた時、古柳さんが思い浮かぶんです」  丸い瞳は輝いて、白い頬は紅潮していた。彼女が顔を動かすと、黒髪からちらりと、パールのピアスが見えて、胸が高鳴った。 可愛くて、仕事熱心で、でも思い詰めてしまう後輩に、こんな人になりたい、尊敬してる……頭の中で反芻した。 夢でも、俺の妄想でもない。 「そんな、ない、ないない!お世辞でも、ありがとうね」 「お世辞じゃないですっ古柳さん、かっこいいのに優しくて……モテそうだなぁって」 「なに言っての。モテるわけないじゃん」  日高愛美の口から繰り出される、称賛の数々。体が熱い……いやいや、勘違いすんな。仕事手伝ったから、お世辞言ってくれているだけだ。  それに彼女は以前、楠部の彼女になりたいと、はしゃいでいた。俺はただの先輩。そこらへんにいる、同僚A。楠部のような経済力も、人目を惹く容姿も無い、平凡な人間。  油断したら緩んでしまう口元を引き締めた。 「え~、古柳さん、お付き合いしていらっしゃる方とか?」 「えっ……と」  どういう意図で聞いているの?雑談?恋人の有無を聞くのは……俺が気になっているから?  まさか  まさかね  勘違いするなと、頭で警鐘が鳴る。それでももしかしたらと、期待がもたげた。 「いない、かな」 「え~、モテそうなのに」  ピンク色の唇から繰り返される「モテ」。もしかしてだけど、いや、有り得ないけど、日高愛美は俺のこと、ちょっとはいいなって……楠部の顔が浮かんで、心がすぅっと冷えた。借金の代わりに、セックスした友人。同居して、飽きもせずほぼ毎日やっている。  あいつはセフレだ。恋人なんて甘い関係じゃない。楠部が囁く「好き」を頭から打ち消した。 「いないいない。モテない人生歩いてきたから……日高さんは?」 「えー、いませんよぉ、全然モテないんです」  可愛いのにね、とのど元まで出かかった言葉を飲み込む。セクハラだ。 「そうなんだね、意外だなぁ」  心の中でガッツポーズをした。  ーー二十三時近く、日高愛美と別れ、オフィスを出た。駅の改札に向かおうとしたところ「古柳?」と、声をかけられた。  今日で何回目だよ。振り向いて、あっと声が出た。学生時代、オンラインカジノを教えた旧友の篠田だった。スーツに革靴、黒いコート。自分と似たような、勤め人の恰好をしていた。 「久しぶり!」 「何年ぶりかぁ?古柳、職場ここら辺なん?」  酔っぱらっているようで、かなり酒臭かった。仕事の話を軽くして、名刺を取り出す。 「近いじゃん!俺、ここで開発」  交換した名刺には、ここから十分ほど歩いた、CMでよく耳にする医療機器メーカーの名前があった。 「今まで会わなかったのが、逆に不思議だなー」 「だな」 「お前も真面目に働いてんならさ、もうギャンブルとかハマってないよな?」  旧友の言葉に心臓が音を立てた。曖昧な笑みで、誤魔化した。 「まぁ……普通に働いてるよ」 「なに、古柳フリーランス?」 「え、いやいや、客先だよ」  名刺を交換したのに、篠田は妙な質問をする。酩酊して名刺の文字、見えなかった?充血した目に穴のあくほど見つめられて、沈黙が降りた。 「あ……どした?」 「なんかすげー身なりいいな」 「……え?」 「コートとか、靴。客先常駐って、結構もらえんの?」 「や、別に、そんな……」  大束にも似たような指摘を受けたことを思い出し、顔が引き攣った。セフレに整えられた身なりを指摘されると、後ろめたい気持ちになる。元々薄かった服や装飾品への興味は、楠部との同居で消失した。あいつが愛好するブランドで服や時計、靴、下着……身に着けるもの全てを揃えるから。  あれが着たい、これが欲しいと言ったことはない。興味がないし、それに俺はセンスないから、任せるよと言えば、楠部の機嫌が良くなる。 「へぇ、アウトレットとか?」 「あ、まぁ、うん……」 「やっぱ学生の時とは違うな―」  赤らんだ顔が、感心したように頷いた。 「ま、じゃあ、今度飲もーぜ」 「おー、引き留めて悪かったな」  それじゃあ、とへべれけになった旧友に別れを告げた時だった。何かを思い出すように、上を見上げていた篠田が「楠部」と呟いた。 「お前、もうあいつと付き合いないよな?」 「……なんで」  なぜ、ここで楠部の名前が出るのか。  改札に向いていた足が、地面に縫い付けられたように、動けなくなった。深夜近くになっても、何本も電車が通る駅地下は、人の行き来が激しい。疲れか、蛍光灯の光が眩しかった。 「えー……あいつさぁ」  旧友は落ち着かないのか、視線がきょろきょろしていた。まるで何かを警戒する仕草だった。 「なに?」 「あー……ちょっと、どっかで、あ、お前、腹減ってね?そこで、飲みながら話そーぜ」  旧友が指したのは、居酒屋チェーン店の看板だった。
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