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起業
誓約書にサインしてから、俺の怠惰は輪をかけて酷くなった。
自分の金はすっからかん、友達もいない、楠部のゆっくりしてね、に甘えて、だらだらとマンションに寝泊りしていた。これじゃあ駄目だと、自分のアパートに戻って、三日が経った。
四畳一間の狭さに息苦しさを覚え、文庫本を持って、公園近くの川辺を歩いた。春休みだから、大学に行かずに済むのが救い。歩きながら背伸びをした。
何気なく、ジーンズの尻ポケットに突っ込んだ財布に触れる。楠部がくれたブラックカード。なんでも買える、なんでもできる、魔法のカード。
これで借金に苦しまずに済む……胸のざわつきが抑えられず、俺は適当な土手に寝っ転がった。
誓約書にサインをしたら、いくらでも金を貸すと言われた。その証拠に魔法のカード。これでもう、オンラインカジノで何回スロットを回してもいいし、何回ポーカーに負けても、気にしない。いくら使っても、消えない金。
これで何度もあの、ギャンブルの酩酊感みたいな興奮が、味わえる。
喜んでいる反面、楠部の顔が浮かんで、口の中がざらざらした。
『かわいい』
『好き、好きだ』
『愛している。朔、大好きだよ』
楠部のマンションには、ゲストルームがあるのに、俺達は同じベッドで寝ている。楠部が望んでいるから。彼の睦言に、俺は『うん』と返事をする。
『朔は俺のこと好き?』
『うん』
お決まりのようになったやり取り。それでも楠部は、顔を綻ばせて、抱きついたり、キスをする。俺は楠部が好き……?
本を貸し借りし、夢中になって語り明かした友人だから。
いつも十万円をくれたから。
借金を返してくれたから。
彼を好きなのかと自問しては、見えない答えから目を逸らす。ブックカバーに包んだ、夏目漱石の『虞美人草』をパラパラと捲った。
暑くない、寒くない、ちょうどいい気温。お花見日和だからか、公園に植えられた桜の木の下には、青いブルーシートが敷かれていた。
家族連れや同じような学生集団から喧騒が聞こえて、俺は栞を挟んだ――藤尾達が、博覧会に出向いたシーンを開いた。
『虞美人草』に出てくる登場人物達は院生だったりして、歳が近い。遠い昔って言っても、百年前ぐらいの学生グループが変わらない行動をしていると、共感する。確か、漱石の『三四郎』も大学に入学した青年を書いていた。
時が経った小説の中に、今と変わらない普遍的な日常を見つけるのも好きだった……わいわい複数人で出かける友達とか、俺にはもういないけど。
土手に寝っ転がって文庫本を捲っていたら、デカくて統率が取れた掛け声が聞こえてきた。
起き上がって川を見ると、スーっとボートが、通り過ぎて行く。てか早い。めちゃくちゃ早い。ボートに乗った数人が、もの凄い勢いで、漕いでいく。目で追っていたら、あっという間にボートが小さくなっていった。
社会人?どっかの大学?気になって、スマフォを開いた。検索エンジンに公園、川名、ボート部と打ち込んだ。自分とこの大学だった。ボート部とかあったのか。知らなかった。
ちょっと調べて、興味が薄れた。読書を再開すると、時々、強い風が吹いて、桜の花びらが舞ってくる。
自販機で飲み物でも買おうか……小銭、一円も持っていなかった。
気を取り直して読書を続けていると、ふっと影ができた。曇ったのかと、文庫本から目を上げると、男が立っていた。
タンクトップと短パンみたいな水着には、ローマ字でOtsuka……大塚?大束?調べたから、多分同じ大学。でも見かけない顔だった。
うちは理系と文系の棟が分かれているから、文系だと判断した。どうしてかって、目の前に立った男は、一度見たら忘れられない顔をしていたから。
ぴちぴちの水着が、逞しい体格を強調していた。筋肉質な二の腕から手首にかけて、血管が浮いているのが恐ろしい。極めつけは、立派な体格に劣らない精悍な顔。鼻梁は高く、口は大きい。骨格が太いのか、全体的に威圧感がある男だった。
ワイルド系イケメンの登場に、尻がもぞもぞ落ち着かなくなった。
『……なにか?』
『なんの本、読んでいるんだ』
こういう時って、ふつー、すいませんとか前置きが入らない?いきなり質問してきたごついイケメンは、そうするのが当たり前――上から訊ねる口ぶりだった。
『夏目漱石の虞美人草……』
『は?なにそれ?俺、本読まないんだよ』
なんで聞いてきた?ドン引きしていると、イケメンはじっと見下ろしていた。目力が凄いから、体が動かなくなる。
『……あの、なにか?』
『いや』
短い返事。イケメンはくるっと背を向けると、行ってしまった、ギリシャ彫刻みたいな肉体は、背中の筋が浮き上がっていた。本当に、美術館とかに飾ってある、彫刻みたいな男だった。
……春休み開け。
大学三年の時期にぼっちで授業を受けて、ぼっちで昼食を食べる。そんな日々に慣れてきた頃、同じ授業を受ける、顔は分かるぐらいの同期に話しかけられた。
『呼んでる人、いるよ』
友達ができるかもと、わくわくしていた俺は意気消沈。誰だよと、講義室の出口付近に近づいた。
『あ……』
『古柳、朔か?』
春休み、土手で話しかけてきたイケメンだった。前は水着を着て、筋肉が強調されていたけど、今日はジーンズに寒色のニットと、どこにでもいる大学生の恰好だった。
『そう、ですけど』
『この前、論文入賞してたよな?』
大学二年時、賞金目当てで応募した懸賞論文名を出されて、頷いた。結果は入賞だった。
『俺、今度、会社立ち上げるんだけど、システム開発、手伝ってくれないか?』
『はぁ……?』
突然だとビビったけど、春休みに話しかけてきたのはこれかと、納得した。したけど、声をかけてきた当の本人は、春休みの出来事など、忘れている口ぶりだった。
公園でちょっと会った人間の顔とか、覚えているわけないか。
俺は二つ返事で了承した。
うちの大学は方針なのか知らないけど、学生のチャレンジ精神を後押ししている。特に学部とかサークルによっては、起業した~って軽いノリで話しているのを聞く。
だけど成功して、続くのはほんの一握り。イベント企画とか、イベントコンサル(何をするのか知らない)とかが中心で、芸能界、出版業界と適当なコネを作ったら、規模は縮小すると聞く。
こいつも見るから陽キャだから、イベント関係の仕事でしょ~と予想した。となると、俺にホームページの作成とかを、タダでやらせようとしているのかもしれない。
PHPはかじった程度。どこでバックレようかと算段していたが、起業自体がぽしゃるかもしれないと、気楽に構えた。
『あ~……俺で良かったら。あんまり技術はないから、他にいい人いたら変えて』
『いや、お前に決めた』
イケメンはきっぱりした口調だった。がっしりした顎に、体に響くような低音と目力が怖くて、咄嗟に下を向いた。そしたら、名刺を渡された。
大束 将
連絡先を交換し、そこから打ち合わせだと呼び出されて……大束が、俺の偏見丸出しの予想を壊すような、分厚い資料を渡してきた。
会社のまだ企画段階だと渡された資料には、今後の人口推移とか、アジア市場とか、ごちゃごちゃ書いてあった。
取りあえず大束の会社は、アジア圏を中心に事業を展開していきたいのは分かった。アジア圏の情報を基にした、でかいマーケティング。データベースを作るのが、俺の仕事らしかった。
規模でかすぎ。イベントのホームページとか作ればいいと構えていた俺は、背筋を正した。他の技術者は?予算は?工数は?
慌てて質問し始めた俺を、大束はじっと見下ろしていた。身長が十センチ差はある――楠部も高いけど、大束は体格がいいから、それだけで緊張が走った。
『やっとやる気を出したな』
『何言って』
『最初、適当に返事をしていたから……俺は就活で面接官にアピールするために、起業するんじゃない。本気だ』
『……』
『だからお前も本気になれ』
大束に喝を入れられ、最高技術責任者(CTO)と大仰な役職を与えられた。
完全に、舐めていた。大束の言う通り、インターン先で、アピール材料程度に、ぶら下げて行く起業だと、高をくくっていた。
『放り出すなよ』
念押しされて、諦めた。やれるとこまで、やろう。
大束に決心が伝わったのか、彼は他の技術者を紹介してくれた。今、思い出すと、あの時が一番、楽しかったかもしれない。
どこで知り合ったのか、国籍、年齢、性別、専門……みんなバラバラの技術者を大束は集めて、俺に指示しろと言ってきた。年齢も上だったり、俺より能力がある人を相手にするのは、気疲れしたし、頭を悩ませることが多かった。
だけど大束や他の幹部達と仕様を決め、設計書を起こして、仲間たちと何度もレビューして、ブラッシュアップを行った。
楽しかった。みんなが違う視点でレビュー、意見、議論をするのは、昔の楠部と――まだ友達だった頃の楠部と、一冊の本を題材に語り合うのと同じくらい、夢中になるものだった。
リリースして、障害が起きて、修正して、またレビューして……ローンチされた。大束の会社は、滑り出しは上々だった。小さいながらも、今、注目するべきベンチャー企業として、経済誌に小さく載った。
会社が軌道に乗り、システムも問題なく稼働した頃だった。遅くなったがと、大束が幹部を含めて、全員にメールを出した。ホテルの会場を貸し切って、社員総出の打ち上げが決まった。
トップの大束、他幹部が挨拶し、一応、俺も挨拶を済ませた。安物のスーツしか持っていなかった俺は、喜ぶ楠部がオーダーしたスーツを着ていた。壇上から戻ると、同僚たちから、高級スーツに着られていたと、揶揄われた。
でも会社は居心地が良かった。だって彼らは、キャンパスで広まった俺の噂を知らない。遠巻きに笑いながら指を差さないで、自然に接してくれる。
ぼっちになったのは、自己責任だと納得しても、惨めな気持ちは拭えなかったのに。大学から一歩外に出れば、世界は広い。
大学に居場所が無くなった俺は、新しい居場所を見つけた、そんな気持ちだった……数十分後、ぶっ壊れたんだけど。
挨拶も終わり、打ち上げが中盤に差し掛かった時だった、後ろから肩を掴まれた。大束が深刻な顔をしていた。
『お前、ギャンブルにハマってるって聞いたぞ。かなり借金あるんだってな?』
隣には、日本語が堪能な香港出身の同僚がいた。今日の打ち上げのために髪をアップした彼女が、目を見開いた。
酒の席で話すことかよ……羞恥心と怒りを抑えて『そうだけど』と返した。
『どうして?報酬が足りないのか?』
『違うよ……俺が悪いんだよ』
ギャンブルがやめられない。気が付けば、オンラインカジノにログインして、スロットを回している自分。会社から貰う莫大な報酬も、数時間後には、手元に残っていなかった。
『どうして?お前、仕事ぶりは何も問題ないだろ?どうしてギャンブルなんかやってんだ……おいっ、聞いてるのか?!』
大束がぐいぐい肩を引っ張ってきた。微かに匂うのは、酒の匂い。大束は相当、酔っているようだった。
『……別にいいだろ……お前に関係ない』
『ある。幹部に不穏な噂があったら、困るんだ。真面目になれよ』
酒はほとんど飲んでいなかった。素面で足元が、ぐらついた。
――真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ――口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。――実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。――
『宗近……』
『何言ってるんだ?!俺の話、聞いてるのか?!』
がくがくと肩を揺すられた。でかい声でギャンブルをやめろ、お前のために言っているんだと怒鳴られた。
宗近……俺の嫌いな、宗近
本なんか読まない大束が、宗近と同じセリフを口にしたことに、衝撃を受けた。
顔を背けると、息が苦しくなった。大束に胸倉を掴まれていた。
『おいっ!聞いてるのか?真面目に――』
『CEO!やりすぎです!』
同僚が止めに入り、血相を変えて、幹部達が駆け寄って来た。ほろ酔い気分の打ち上げは騒然として……後日、俺は仕事を辞めた。
鬼のような形相で、大束に詰められたが、首を振った。借金がばれた。会社もきっと、大学みたいになる。
また楠部のマンションに引きこもった。俺を好きだと言い続ける男のベッドに戻って、足を絡ませて眠った。
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