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真面目になれ
そこにいろって――俺は一人、住宅街の夜道に突っ立っていた。午前三時。車もほとんど通らない道路で、上を見上げた。
街灯は点いているけど、マンションには明かりがなく、静寂に包まれていた。こんな時間帯に、迎えに来てとは言えなかったし、場所も伝える前に切れた。
メッセージを打ったが、既読は付かない。
大束、慌ててたのかな。
だったら尚更、申し訳ない。あっちが気付いて、電話してくるかな。それとも俺から……動くなと言われたから、ぐるぐる円形を描くようにうろついていたら、車の音が聞こえてきた。
何気なく顔を上げたら、ライトを当てられた。ゆっくりと速度を落として近づいてきた国産車に、声を上げた。
「え?」
「お前、何だよ!その恰好!」
ぼんやりした頭に、もの凄い怒鳴り声。窓を開けて大声を上げるのは、大束だった。近所迷惑だと周りを窺っていたら、車が停まり、ドアが開いた。
「馬鹿っ、乗れ!」
体を押し込むように、後部座席に追いやられた。見慣れた座席のシートに、だんだん頭が冴えていく。学生時代から、何度か送り迎えしてもらっていた車だった。
ふつー金持ちって、外車を乗り回すイメージ(楠部はペーパードライバーだから、車は持たない)だったから、大束の趣味はちょっと意外だった記憶がある。
燃費の悪い車とか、コスパが悪い、だったか。押し込められて、車のシートに膝を付いた。何か言う前に、大束が運転席に戻り、アクセルを踏んだ。
「あの」
「お前、その恰好はなんだ!」
また怒鳴られた。バックミラーに映った目つきが鋭くて、体が縮み上がった。寒いし、怖いしで、何も言えなくなっていると「まさか」と言われた。
「お前……もしかして……強盗にあったのか?」
「いや、違うから」
怒鳴り声が一転、気遣うような声音に変化した。
「本当に?」「警察は?」「何も恥ずべきことじゃない」とか、斜め上の声をかけられて「大丈夫」と繰り返した。
確かに、体はあちこち痛んだ。最低限の持ち物で出てきた身なりは、ベルトのないスラックス、くしゃくしゃになったシャツの上からコートと……大束が勘違いしてもしょうがなかった。
「取りあえず、俺のマンションに行くぞ」
「うん」
「心配させないでくれ」
「……あのさ、なんで場所、分かった?」
俺、住所とか番地、教えてないはず……しかも楠部と同居しているマンションから結構、歩いていた。
運転席に座った男は、さっきまで喋りっぱなしだったのに。車内はラジオも無く、しんと静まり返っていた。
「大束?」
「……言っただろ?」
「え」
「電話で、お前が言ったじゃないか。ここだって」
教えたっけ……?
首を捻ったが、大束のきっぱりした口調に、否定できなくなった。バックミラー越しに、ぎらぎらした目が合う。
なんかビームとか光線が出そうな目力に「そうだったかな」と頷いた。
電話の時、言ったのかな。つい数十分前のことなのに、記憶が無い。頭の中、ぐちゃぐちゃしてるから、忘れたのかも。
「……もうすぐ着くから」
「うん」
スマフォを見ていたら、ふと楠部は寝ているのかと、彼の寝顔が、脳裏に浮かんだ。
大束の住まいは、楠部のマンションからそんなに遠くない、恵比寿のマンションだった。夜中だったからあんまり見えなかったけど、お洒落なデザイナーズマンションだった。高そう。
確か、楠部が買ったあの部屋は、一ヵ月の家賃が俺の給料四ヵ月分だった。
こっちはいくらするんだろうとか、現実逃避しながら、エントランスを抜けた。低層マンションらしく、最上階はニ階。
案内された部屋は、まず殺風景なリビングに驚いた。観葉植物一つ置いてない、広々とした空間は、テレビ、ソファ、ローテーブルにキャビネットと、最低限の家具が置かれていた。
展示会とかの方がまだ、花とか置いてそう。かろうじて、ローテーブルにタブレットPCが置かれていた。
「――で、何があったんだ」
ソファを勧められ、座っていると、大束がワインボトル二本とグラスを二つ、持ってきた。
「古柳は……スパークリングワインでいいか?ほとんど飲まないだろう」
聞かれたことは無かったのに、大束は普段の食事を見ているらしかった。シュワシュワした飴色の液体が注がれた。
次々と弾けていく小さな気泡。じっと見ていたら、やっと話す決心がついた。
「……楠部と住んでるマンション、出て来た」
学生時代にオンラインカジノにハマったこと。膨らんだ借金を返せず、楠部に肩代わりして貰ったこと……楠部と交わした制約と、職場に気になる子がいること。
楠部と体の関係があることは除き、マンションを出てきた経緯を話した。
大束は黙って聞いていたが、でかくて生活感の無さそうなローテーブルで、頭を抱えた。
「古柳……」
呆れてものが言えないのだろう。俺の噂を聞いて、胸倉を掴んできた男だ。誓約書にサインして、楠部の金を浪費していたと分かった今……殴られるな。
でも殴られて当然のことをしてきたのは、自分。
楠部が全て仕組んでいたとしても、転落していったのは自分。
いくらでも金を貸すと甘言につられて、ここまで流されたのは自分。
大束は、宗近みたいな口癖があって苦手だけど、正しい奴だった。ここで突き放されてもしょうがない。彼が口を開くのを待った。
「お前、楠部と寝てるだろ」
「は……な、なんで」
「首。あとボタン、掛け違えてる」
マンションを追い出されるか、どんな説教が飛んでくるのか――身構えていたら、震えあがるような指摘。慌ててボタンを留める。大束はでかい溜息をつくと、後頭部を掻いた。
「古柳、俺は今、お前と売春の是非を議論するつもりはない」
「……うん」
「借金を盾に拒めなかったんだろう?」
「……」
あの時、断れば借金を返して貰えなくなると、恐怖の方が大きかったのは事実。でもいざラブホテルでやった後、これで借金が無くなったと安堵した。この体一つで、三百万がチャラになって、ラッキーだって。
「……いくらだ?」
「……なにが」
「借金だ。学生時代の」
大束は自分のグラスに赤ワインを注いでいた。乱暴な手つきに、ワインが零れそうで、ヒヤヒヤした。
「……三百万」
「三百万で売ったのか……体を」
「……うん」
もう嘘は許されないし、取り繕ったら、逆にややこしくなる雰囲気だった。大束の見開いた双眸が怖くて、下を向いていた。
突き刺さるような視線を感じて、顔を上げられなかった。過去、大束とシモの話とか、したことがなかった。俺も下ネタが苦手ということもあったが、何よりも彼の纏う潔癖な空気が、猥談を許さなかった。
「三百万……」
凍えるような声で、何度も「三百万」と単語を口にされた。
「あの、軽蔑されて、当たり前だから……ごめん」
どうして大束に謝っているのか。でも謝んないと、駄目な空気。グラスの細い取手を摘まんだ大束の手が、震えていた。投げられそう……
「そんな端金で……体を売ったんだな……」
怒りを抑えているのか、声まで震えていた。大束みたいな実家がデカい工場で、本人も成功しているんだったら、三百万は些細な金額だろう。
だけど俺にとっては、人生が崩壊するような、途方もない金額だった。
「お前は借金のカタに、楠部に体を売っていた。あまりにも倫理観のない行為だ」
「……はい」
「だから俺が代わりに金を返す」
耳を疑った。顔を上げると、大束が赤ワインを一気に飲み干していた。かんっと、テーブルに無機質な音が響いた。
「何言って――」
「ここで生まれ変わるべきじゃないのか?真面目になれよ」
別れ際、お決まりのように言われてきた言葉。大束は、本は読まないと言っていたのに。どうしてと、寒気がした。落ち着かなくなって、俺もグラスを傾けた。
酒臭くない、程よい甘さのワインが、喉を潤した。
「ここがやり直せるチャンスだ。お前も、ここで立ち直りたいから、俺に連絡したんだろ?」
観葉植物すらない、寒色を基調にした部屋。本なんか一冊も――本棚すら、見当たらない。宗近なんか知らないはずの男は、宗近そのものだった。
――君もこの際一度真面目になれ。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね
――いえ、分ったです
――真面目だよ
――真面目に分ったです
「そう、かも……しれない」
大束が苦手だ。今も、その意識は消えていない。強靭な肉体に、自分の正しさを疑わない男。いつも自分自身が、どこか頼りなくて、後ろめたさを感じる俺とは、正反対な男。
楠部は俺を否定しなかった。だから友人としても心地よくて、ずるずると流されていた。
「俺が金を返す……やり直そう」
大束の目は輝いていた。俺みたいなクズを、更生させようって、決意した瞳。これがうっとうしくて、怖くて嫌いだったはずなのに。
大束の言う通り、ここがやり直せるチャンスかもしれない。
「大束、金は俺が自分で、返したいっ」
やり直すチャンスだから。ここで楠部から自立するためにも、人に甘えてはいけない。急き立てられるような気持ちで、大束に頭を下げた。
「大束、ありがとう。代わりに返すとか、気持ちは嬉しい。けどやっぱり自分で返さないと駄目だ」
楠部に指摘された通り、立ち直りたいと――日高愛美の笑顔が浮かんだ。可愛くて、仕事に一生懸命な後輩。好きだ。でも彼女と付き合いたいとか――それはきっかけ。どこかで、このままじゃいけないと、何度も自分に言い聞かせてきた。
楠部から自立する。
ここでやり直すんだ。
「真面目になるよ。真面目になって、自分で金返して、楠部に……真面目になっ――っる」
視界がぐらついた。持っていたグラスを取り上げられる。
「すぐに酔うな……泊まってけ」
ぐらぐらして、頭を押さえていると、腕を掴まれた。肩を組まれて、持ち上げられる形で、立ち上がる。
足元が揺れる感覚がふわふわして、気持ち良かった。頬に温かい吐息を感じて、横を向いた。
「ゲストルームでいいよな?」
「あ、ありがと……大束、俺、金はじ、自分、で、返したい」
「……将でいい。将って呼んで」
ぐらついた視界で、男の咽喉仏が上下した。やけに生々しい動作が目に付いて、嫌な感じがせり上がる……ラブホテルに入った時の、楠部の余裕のない顔が浮かんだ。
違う。
すぐさま、大束に感じた嫌悪感を打ち消した。
自分の正しさを、自分の行いこそが、正義だと信じている大学の同期。昔から性欲など存在しないように、潔癖な空気を纏った男だった。
彼のストイックさが、金にだらしない俺を炙り出すから。だから、嫌いだったんだ。
「悪いけど、ゲストルームの隣、俺の部屋に入らないでくれるか」
「……?ああ、うん?」
「すげー汚いんだ。見られたら終わり」
リビング、こんな綺麗なのに。意外だな――照れた笑顔を最後に、そこから記憶がない。
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