誓約書

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誓約書

 誓約は三つ  一つ目、金は楠部から借りる事  二つ目、楠部以外の人間、または消費者金融から借りない事  三つ目、借金は俺に交際相手、もしくは結婚する時に清算する事  大学時代、法的効力は無いけどね、と笑いながら楠部は誓約書を出してきた。もっといろいろごちゃごちゃ書いてあったけど、この三つを守ってくれさえすれば、いくらでも金を貸すと言われて――俺はほいほいと誓約書にサインした。  今の俺は、どれくらい楠部に借金をしているんだろう。大学を卒業した時に、借金は七桁台だと、あいつは天使みたいな笑顔で教えてくれた。  七桁後半……もしくは八桁台……最悪、九桁……?  ぶるりと、真冬の公衆トイレで用を済ませた時みたいに、背中が震えた。駄目だ、駄目だ、駄目だ。このままでは駄目だ。 今年こそ――もう二十七になるのだから、今度こそ、楠部に金を返す算段を付けないと。 「あ、楠部(くすべ)聰一郎(そういちろう)」 「この頃、良く出てるよな」  昼休み、客先常駐のエンジニアでごった返す食堂。俺はデスクが隣の同じ会社から来た同期一人、batch開発チームで共に働く、同じく客先常駐の――他会社の同僚四人の合計六人で、昼食を食べていた。  今日のA定食は、モツ煮込み。うきうきしながらテーブルに着くと、設置された液晶テレビに、デカデカと楠部の顔が映し出されていた。 「めちゃくちゃイケメンですよね~。これで億万長者でしょう?!」  俺の隣で声を上げたのは、今年入って来たばかりの新人――艶やかなストレートの黒髪が綺麗で、つい目で追ってしまう日高(ひだか)愛美(まなみ)だった。彼女は液晶テレビに映った美男子に、目を輝かせていた。 白いトップスに淡い色のカーディガンと、繊細そうなレースのタイトスカート。ちらっと手元を確認する。今日の彼女のランチはヒレカツ定食。 昼食を食べる時、魚より肉を頼むことが多いなと思い出して、好きな食べ物は?焼肉とか好き?良かったら今度一緒に――この先一生、本人に言えないフレーズを次々と思いついては、話しかけるシミュレーションをする。  一生、話しかける機会はないと、ちゃんと理解している。だから妄想ぐらい許して欲しかった。 「やばい……モデルとか俳優やっててもおかしくないですよね~」  本当、凄いイケメンだよな、と心の中で同意する。液晶テレビに映った楠部は、上品な笑みを浮かべながら、マイクを手に取り、壇上に立っていた。大学に講師として招かれた時の映像らしい。テロップにはこれから日本を変える投資家、今話題のイケメン社長と安っぽい文字が並んでいた。 「は~若い子は好きだね、こーいう男」 「かっこいいじゃないですか!それにこの人、学生時代にベンチャー立ち上げて、二十代なのに成功して、凄い人ですよ~」 歯科矯正された真っ白い歯を時おり見せながら、堂々とした立ち姿で講義をする楠部の全身を、カメラが追う。 素人目にも分かる高そーなスーツ越しからのぞける筋肉質な体つき。俺はベッドでいつも、デパートに置いてあるトルソーみたいだなって、その胸板に顔をくっつけている。 ベッドでは乱れる豊かな黒髪も整えられており、シャープな鼻梁に、くっきりとしたアーモンド型の目は、人間離れしていて、その美貌は作り物めいてすらいた。  日高愛美の上司にあたる、四十代の同僚は苦笑した。 「こういう非の打ち所がない男は、せめて性格が悪いとか、悪評があったら良いよなぁ」  残念。性格も良いんだな、これが。大学時代、周囲からだらしないと散々言われた俺に、あいつは金を貸してくれた。 在学中に立ち上げたベンチャー企業を、ソフトウェア会社に売却。その売却資金で、ベンチャーキャピタル会社を起ち上げた。 金は有り余っていたのだろう。当時というか、今もだが、借金に限度は無く、言えばいくらでも――当時は成功者として、キャンパスを歩けば人が群がっていた楠部。 しょうもない、どうしようもないクズの俺に、小銭を恵んで、ノブレスオブリージュを気取っているのだと、卑屈な俺はへこへこしながら金を受け取っていた。 あの時より何倍も華やかになった楠部。 キャンパスで、別の意味で話題になっていた俺をマンションに住まわせて――それで俺達は、寝ている。 「そういうの、全然無い人なんですよ。独身で、この前、社員さんのインタビュー記事、私読んだんですけど、仕事中毒だって」 「ふーん……俺は、誰だっけ。ほら、同じくらい若い奴が出てるだろ、上場して、ユニコーン企業だって言われてる……」 「ああ、大束(おおつか)(たすく)?」 「そうそう。あっちの方が良いな。男っぽくて、同性から見ても憧れるよ」  食堂を囲いながら、同僚たちは好き勝手に話をする。有名人は大変だよなーと、相槌を打ちながら、味噌汁を啜った。 隣の日高愛美は「大束将……?」と興味のない話題が出たことに、あからさまに声のトーンを落とした。 マイペースで、でも仕事には熱心で、ちょっと喜怒哀楽が分かりやすい子。ああ、可愛いなと思ったところで『入ってきた新人、気に入ってるんだ?』と昨日――耳元で囁いた、あいつの声が唐突によみがえった。 ――昨日の夜、ベッドで四つん這いになった俺をバックで挿入しながら、あいつは荒くなった息を吐いた。  その言葉の意味するところを理解した俺は、恐怖で体が震えて――怯えを察した楠部は逃がすまいと、俺の勃起したものを、大きな手でキツく締めあげてきた。悲鳴を上げて、崩れ落ちると、耳元で『付き合ってもいいんだよ?』と楽し気な声がした。 『あっ……』 『ほら、良いなよ。可愛い新人が好きですってっ』 『あっ、っ違う、お願いっ違うから、そこばっかやめてくれっ』  浅い抽挿を繰り返しながら、あいつは俺の弱いところばかり執拗に責めた。クソっデスクワークなのに。 「確か大束将は、楠部聰一郎と大学同じじゃなかったっけ」 「え!そうなんですかぁ~。知らなかった~!」 上司の何気ない呟きに、日高愛美は途端、甲高い声を出した。自分の興味があるものとないもの、はっきりしている。 俺は上がった口角を人に見られないよう、味噌汁を飲み干した。 日高愛美と付き合う?馬鹿言え、借金は到底、返せる額じゃない。人は大概、交際相手に莫大な借金があれば、別れを告げる。そして何より、日高愛美は俺に興味も関心も無い。 根暗な先輩社員というのが、明るい彼女からの評価だろう。それよりも、俺が密かに入ってきた新人を気に入っているとは、あいつはどこから聞き出したのか。 ここは都心の一等地に建てられたビルの二十四階。投資やら医薬品やら、幅広くやっているグループ企業のカード事業を行う子会社。 そして俺は、その子会社の下の下の下請け――客先常駐と呼ばれているエンジニア。 何百個とデスクが並べられた空間。同じく客先常駐として、中小企業から出向するエンジニアの入れ替わりは激しい。ここに楠部の監視の目がある? まさかね。 どこまでも金にだらしなくて、駄目人間、クズと言われていた俺を、楠部が監視するわけ無いだろう。あいつもそんな暇じゃない。 「もー、古柳(こやなぎ)さん、全然喋らないんだから!」 「え、あ……ごめん」 「日高さん、こんな奴、ほっといて良いよ。どーせ楠部聰一郎とか大束将に嫉妬してんだろ?さっきから不機嫌そうな顔してるよな」 「あー…あはは」 前に座る、同じ会社の同期である室田(むろた)が呆れたような顔をしていた。顔に空気読めよ、と書いてある。俺はへらへら笑いながら――大学時代から変わらない、人から何を言われても、顔に標準装備していた、ぎこちない笑みを作った。 「なんだよ、古柳。まさか同年代だからって、張り合おうとしてんのか」 「違いますよ。勘弁してください」 「こんな殿上人に俺ら底辺エンジニアが、お会いすることはないんだから。ちゃんと目の前の仕事をしなさい」 「ははぁ。午後から精進します」 やいのやいの言われていると、昼休み時間が残り半分を切っていた。全員が食べ終わると、食器をカウンターに片付けていく。デスクに戻る廊下で、自然と日高愛美と隣になった。 「本当にかっこいいですよね……」 「あはは、確かに」 ぼんやりと、夢見るように呟いた日高愛美はとても可愛かった。頬をちょっと赤らめて、大きな瞳は、アイドルに憧れるように、遠くを見つめていた。  もちろん、そのまつ毛バサバサの瞳に、俺が映ることは今も、これからも無い。 「こんなこと言ったら、古柳さん引いちゃうかもなんですけど……」  日高愛美が秘密話をするように、声を潜めた。俺はつい腰を屈めて、その言葉を――なんでもいい。日高愛美の話す内容は、全て耳に入れておきたい。 「うん、なに?」 「私、楠部聰一郎に出会えたら、絶対に彼女の座を狙います。ほら、プロ彼女とか、ちょっと前に流行ったじゃないですか。あれ、憧れます」 「……そっか」  うん、日高愛美の声は可愛い。全て可愛い。だからいつもどおりの、あの笑顔を出そうとして、顔が歪んだ。  ぶちまけてしまいたい。俺はクズでどうしようもない人間で、金をやる楠部は、聖人のように称えられていた。 そうだよ、底抜けに優しくて、俺がギャンブルで大損するたびに、ソシャゲのガチャで金を溶かすたびに……金をくれた。   でもそのクズを、今はセフレにしているよ。 なんて言えるわけないんだな。信じてもらえるわけないし。  俺は表情を見られないよう、日高愛美から数歩遅れて、廊下を歩いた。
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