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「ちょっと早いですが、夕食にしましょうか」
ムトーさんはクタ地区へと車を走らせた。僕らはまだ、お腹がこれっぽっちも減ってはいなかった。だが、せっかくの好意を無下にする気にもなれない。だから、軽く付き合う程度のつもりだった。
「ここはね、観光の方はお連れしない店なんですよ。でも、お二人があまりにも幸せそうだから、私もうれしくなっちゃって。地元の人が通うワルンなんです。あ、ワルンっていうのは、食堂のことで……まあ、とにかく、だまされたと思ってついてきてください」
だまされて良かった。けっしてきれいとは言えない、雑然とした店構え。観光客らしき外国人は、ひとりもいなかった。壊れそうな木の椅子に座り、シミだらけのテーブルについた。次々に出された料理は、どれも見てくれは良くなかったが、スパイシーな香りが漂っていた。満腹だったはずの僕らは、むさぼるように食べた。その味は刺激的で、複雑で、意外性に富んでいて、今までに味わったことのない異国情緒と、どこか懐かしい風情があった。
玲子はナシアヤム(鶏肉ごはん)のソースを口の端につけたまま言った。
「美味いって、限界がないんだね」
僕は、この食事を分かち合えた相手が彼女であることに感謝した。
※ ※ ※ ※ ※
こうして僕たちのバリ旅行は、過ぎるくらいの充足感に満ちあふれて夕刻を迎えた。でも終わりじゃない。本番は、ここからだ。
僕たちは思い出作りのために、はるばる来たわけじゃない。目的は子供。子供が欲しかった。どうしても授かりたかった。玲子は、「俊明の分身が欲しい」とすがった。僕は「玲子の遺伝子を残したい」と抱きしめた。
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