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私はどこにでもいる普通の中年。何の変哲もないサラリーマンだ。
この日もたいして必要もない残業のために遅くなり、人気のない夜道を歩いていた。
一直線に伸びている道路のアスファルトは古びており、ところどころひび割れている。道の左右は畑で囲まれていて、その奥には、数件の民家と、その住宅に沿って敷かれた線路が見える。しかし電灯はわずかにしかないため、それらは灯りで漠然と判断できるのみ。
遅くなったせいかいつもよりも少し暗いが、それでも普段と変わらない帰り道。猫背気味なために、やや背中の曲がった影が私に張り付いている。
しばらく歩いていると、私が歩くのと反対の方向から足音がしてきた。小刻みで乾いた音が一定のリズムで鳴る。
足音の主はすぐに姿を現した。若い女性だった。ジョギングの最中らしく、私にはよくわからないが、ポップな色のジャージで、いかにもジョギング、といった恰好をしている。
夜道を若い女性が一人で出歩く、という状況に若干の恐ろしさを覚えたが、しかし赤の他人である私がとやかく言うことでもない。そして向こうにも通りすがりの中年に用などあるまい。
当然の結果として私とその女性はそのまま進み続ける。
しかし、すれ違う直前、二、三メートル先の電灯の明かりを受けた私の顔を見て、女性が何かに気が付いたようだった。
「あれ? おじさん?」
女性に声をかけられ、私は足を止めた。
「ん? おや、君はたしかぁ、娘の友達の……」
「どうも、お久しぶりです」
女性は娘の学生時代の友人だった。名前は、正直なところ覚えていない。休みの日に時々遊びに来ていたな、くらいの記憶しかなかった。
「あぁ、ずいぶん久しいね。こんな時間にどうしたんだい?」
「いえ、どうってことのない、ただのジョギングですよ」
彼女も社会人になって数年たっているはずだ。流石に受け答えは学生時代のそれとは違っている。しかし学生時代の面影は色濃く残されている。化粧をしていないせいもあるのだろうが、容姿はかなり幼い。
友人の父親、ということもあってか、夜道だというのに、その子は警戒をしている様子もなく、平然としている。
「ただのジョギング」
「はい。ジョギングです」
「なるほど……じゃあ、手元のそれはなんだい?」
私が放置していられなくなって尋ねると、
「これですか?」
その子は手の中のそれを前に掲げ、実にあっさりと答えた。
「包丁ですよ」
「なるほど……包丁だね」
「はい。包丁です。これは包丁です」
「そうだね……なにに使うんだい?」
「なにって、護身用ですよ。こんな夜道を出歩いてたら物騒じゃないですか」
その子は罪の意識を感じていないようだった。
「いや、包丁を持ってる人間が出歩いている方がよっぽど物騒だよ……」
私は出来るだけ落ち着いて会話を続けようとしたが、内心はおっかなびっくりだった。
前々から変わった子だとは思っていたが……。しかしそれでも、娘の部屋に怪しい本を置いて帰ったり、テスト直前にうちの前でキャッチボールを始めたり、程度の、常識の範囲に収まる奇抜さに過ぎなかったはずなのに。
「手のそれ、警察に注意されたりしないのかい?」
私は可能な限り対象を刺激しないように尋ねる。
「警察? あの人たちになにができるっていうんですか?」
「やけに警察への不信感が強いね。」
「本気で走ったらたいてい逃げ切れますから」
「あ、経験則なんだね。それも逃げる側からの……」
まさかわが町の警察が、凶器を持ち歩いている人物を野放しにしているとは。実に残念だ。
「あ、でも、誤解しないでくださいね。逃げる、っていっても、乱暴に突破するんじゃないですからね。この間も、警官三十人に取り囲まれたけど、誰もケガさせずに逃げきりましたから」
「いや、それは、ただの武勇伝だね。その逸話に私の不安を和らげる要素はないよ」
「ただ、その一件のせいで、なんでも警察内部では、担当者の首が飛びそうだ、って噂らしいんです。はは、私、間接的にこの包丁で警察の首を飛ばすことになるんですかね」
「笑えないからね。娘の友達が警察を引っ掻き回してる、って状況は、人の親にはおっかないことだからね」
私は彼女と娘の縁が切れていることを切に願った。
「てか、なぜ君は警察内部の噂を知っているの?」
「内偵者の報告です」
「内偵を放っているのかい?」
「はい。内偵の友達が今年、警察の内定をもらったんです」
「その駄洒落にはどういう意図があるのかはともかく、まさかそんなものでこの場が和むとでも? というか、どこまで冗談なんだい?」
私が尋ねると、その子はあっけらかんとして答える。
「だいたい冗談です」
「そりゃ、そうだろうね」
「私が包丁を持ってジョギングしている、ってこの状況以外冗談です」
「……そうだね」
「包丁を持って徘徊している私が野放しだ、って現状以外冗談です」
「君は自らの異常さを自覚しているな!」
この日初めて、私は声を荒らげた。しかしその子はどこ吹く風で、表情一つ変えない。
「異常って、どうでしょうね……効率とか安全性を意識した結果、常識を犠牲にしてしまったかな、って認識はちょっとありますけど」
……えらく冷静に狂っているようだ。
しかもこの会話の間、包丁の切っ先はずっと私の方を向いていた。まさか襲われることはあるまい、と高を括ってはいるが、本能までは抑えられず、ちらちらと包丁をうかがってしまっていた。するとその子は私の視線に気づいいたようで、
「そんなにこれが気になるなら、おじさんが持っておきます?」
あっさり尋ねてきた。
「それはどんな気遣いなんだい? いや、娘の友達をそこまで疑うつもりはないけど……」
私はそういって、一旦は断ってみせるたが、
「まぁ、しかし」
といって前言を即座に打ち消し、
「一応、預かっておこうかな」
と答えた。
するとその子はすんなりと包丁を私の方へ差し出した。ただ、その際、切っ先は私の方を向いたままだった。
「……君、包丁の刃がこっち向いたままだけど、正しい渡し方、って習わなかったのかい?」
「どうでしょう? 家庭科の授業で、包丁をもってうろうろしちゃいけません、とは教わった気がしますけど」
「適切な指導は受けていたんだね。せっかくの教育が生きていないだけで」
「義務教育の敗北、ってやつですかね」
「負かした君が言うことじゃないだろうね」
言いながら私は包丁を切っ先から受け取り、みずから回して柄を握った。ずっしり思い。やはり本物の刃物だ。彼女の冗談でも私の早合点でもなかった。やや呆然としながら、しばらく手元で眺めてみた。それから私は視線をそのまま彼女の方へスライドさせて、
「だいたい、君は、目の前の相手が包丁を持っている状況が怖くないのかい?」
と尋ねた。
「別に」
即答だった。
「おじさん足遅そうだし、簡単に逃げられそうじゃないですか」
「いや、警察から逃げ切ると豪語する君からすればそうだろうけど」
私の調子はあきらめ気味だった。
遠くで走る車の音がした。会話にわずかに間が空く。私の体はあちこち緊張して強張っているが、対照的にその子はリラックスしている。その子は何気ない会話を続けるようにして、周囲を見渡しながらきいてくる。
「それで、おじさんは今から帰りですか?」
「あ、ああ。ちょっと残業で遅くなってね。君は、その、いったいどうしたんだい? いや、どうしてしまったんだい?」
「どうしてしまった、って。いや、さっきもいいましたけど、ただのジョギングですよ。ダイエット中なんです」
その子は私の感じているストレスに気付かずに、たわいない雑談のようにして話す。
「日中は仕事ですし、走ろうと思ったら、どうしても夜になっちゃうんですよね」
「朝に走ったらいいんじゃないのかい?」
「朝っぱらから包丁なんて持って走ってたら捕まっちゃいますよ」
「夜はよくて朝は駄目、って君の基準がわからないね。てか、朝なら不審者だっていないだろうから、包丁を持ち歩く必要だってないだろう」
「散歩中の犬が襲ってきたらどうやって撃退するんですか」
少なくとも包丁に頼ることはないだろう。
「……この国には過剰防衛未遂、って法律はないのかな?」
私は独りごちる。
「さあ? でも、こういう案件は銃刀法違反で事足りるんじゃないですか?」
えらく独特な罪の自覚の仕方をしていた。これ以上話していたって、私には彼女をどうすることもできない。たった数分の会話で痛いほどに実感できた。
「さて。名残惜しいが、いつまでもここで立ち話をしていては遅くなるね」
やや説明口調ではあったが、私はそう言って強引に会話を打ち切り、その子へ包丁を返した。無論、彼女の方へ柄を向けてである。
それからこの場から立ち去ろうとした。その子も深追いするようなことはせず、
「そうですね。私も体冷えてきちゃいました」
といって見送ろうとする。
さっさとこの場を立ち去ろうと、回れ右する。目撃者に共犯だと思われたくなかったので、できるだけ速足で歩いた。
なんとか無事その場を切り抜けた。そう感じて肩の力が抜け、安堵のため息が漏れた。
しかし、それまで私の後姿を見送っていたその子が、突然なにか思い出したようにして声をあげる。
「あ、そうだ」
私は背中をびくっとさせ、恐る恐る振り返る。
少し距離があるせいだろう。その子は少し張り上げるような声でいう。
「万が一なにかあったら、大きな声だしてくださいね。私がこれで撃退してあげますから」
その子はいいながら包丁ごと手を振り回した。
私は目礼程度に頭を下げ、それから正面を向いた。
「自衛以外の用途にも使うんだね」
怯えながらつぶやいた。そして私はうつむくのだった。
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