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コンコンコンコン
電話ボックスのドアが忙しげにノックされた。仕立ての良さそうなダークグレーのコートを着た紳士が僕を心配そうに見ている。
さっきからどれくらいこうしていたのか。どれくらい見られていたのか。急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「すいません。すぐに出ます」
涙の跡を見られないように俯いて、
「ほんとにすいませんでした」
頭を下げて紳士の脇をすり抜けようとした。
「待って」
「なんですか」
紳士は予想通り淀みないクイーンズイングリッシュで話しかけてきた。僕はまた嫌になって下を向いた。
いま、電話をした彼女と同じ階級の人間なんだ。大嫌いだ。俺のことなんか内心、見下しているんだろう。
「君、何か悩みがあるだろう」
悩みがない人間がいたら教えて欲しい。
「悩みがない人間がいたら教えて欲しい、と思ったんだろう。それはそうだ。申し訳ない。どうだい少し付き合わないか」
このあたりにはそういうバーがある。俺はできるだけぶっきらぼうに答えた。
「生憎そっちの気はないんです」
紳士はクスリと笑った。
「済まない。そういうつもりでは全くない。そこに車を待たせている」
「どこにですか」
ちょうど霧が生き物のように蠢きながら周囲を隠していくところだった。待たせているとかいう車はもちろん、ヘッドランプの灯りすら見えない。自分と紳士がいる電話ボックスの周りだけが明るく光っている。
「こりゃすごい」
紳士もびっくりしている。
「僕はマジシャンなんだよ。その左手に握りしめてるのは1ペニー硬貨、違うかい?」
僕は左手を開いてみせた。
「君はとても大切な人と話をしていた。君は彼女が好きだが、身分違いだと彼女の両親は大反対だ。駆け落ちしよう、と電話で話をはじめたが、彼女は迷っていた。ポケットを探ったけど、出てきたのは1ペニー硬貨だけだった。無情にも電話は切れた」
俺は薄気味悪かった。その通りだったから。
「ついでにいうなら、君は今テムズ川に身を投げたいほどの気分だ」
「だったらどうだというんです、ミスター」
「もちろんそんなことはバカらしいからやめろと、君を止めるつもりだよ」
「そのコインをちょっと貸して」
僕はその自称マジシャンに1ペニーを渡した。
「いいかい、よく見て」
ワン・ツー・スリー
紳士は大きな手を開いた。
握っていたはずのコインが消えている。俺は驚いて紳士の顔を見つめた。
クラクションの音が聞こえた。
「ああ、妻を待たせてしまった。君、名前は」
「ハリーです」
「それは奇遇だ、僕もハリーなんだ。じゃあ僕はこれで行くよ、幸運を祈ってる」
「待って、ハリーさん。俺の1ペニー返してよ」
1ペニーだって俺にとっては大切な財産だ。彼女に電話もできやしないけれど。
「ああ、悪かった。ほら!ポケットをみて」
ポケットを探ると確かにコインがある。
「ちょっと。これなんですか?」
俺は手にした1ポンド硬貨に仰天した。
「いいかい、ハリー。君はその1ポンド硬貨でエマに電話をするんだ。そしてプロポーズする。いいね。必ず電話するんだよ。身分なんて気にしちゃ駄目だ。健闘を祈る」
俺が呆然としている間に、その紳士の姿は見えなくなっていた。
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