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溶けてしまいそうな静けさの中で微睡んだ3秒前に外の路地では或る事件が起こっていた。
聡子が眠る夜の中に、彼は暗躍していた。そう、活動ではなく暗躍である。
世界中のネコを救うべく、彼は動いていたのである。
ひっ、と声を出そうとして音が何も出ないことに気づいた。思い出せば昨日はおかしな時間までボイトレという名の暇つぶしをしてたっけなと考える。そのうちに、最悪の展開が頭にぽっかり浮かぶ。
彼女との鉢合わせ。
そう、機嫌が悪い聡子と出会ってしまうことだ。
ゴミ出しをしない訳にはいかないが、共同スペースで彼女に会いたくないと言う一心で頭は働く。まだ体感8時前だ。まだ、まだ大丈夫なはず。どうにか布団から這い出て眼鏡を掴む。ふわ、と柔らかい感触がした。柔らかい感触?
「うそだろ」
そこにいたのはネコだった。まるまると太ったネコだった。おれは猫など飼っていない。しかしそこにいるのだ。
「よかった。死んだかと思ったぞお前」
昨日の夜のおれの心配は無駄だったようだ。だけどなんでお前がここにいる。ネコを救うということは即ち、人をも救うということだ。おれは一つの仕事をやり終えた。それは嬉しい。だけどなんでお前がここにいるんだ。
「おれは、ネコは飼っていないぞ」
確認するかのように呟いたおれは、窓から小さく青空を見た。売れない曲を作っているおれに、少なくともネコを買う余裕などはない。そして今、こんなにおれが焦っているのかを思い出した。急いでいるのだ。早くいかなければ。大人しくしててくれよとまるまるしたものを睨みながら、どうにか玄関に向かう。他の靴を踏みそうになる。どうしようもない独り言を言いながらチェーンを外す。
キーを探すのに戸惑ったのが敗因か、ドアを開けたら聡子が居た。そこに居たのである。
思わず目を瞑り、大きく息を吸った。それから、彼女の持つやけに大きなゴミ袋の中身を想像して気分が悪くなった。
「昨日は安眠できそうだったんですけれど」
彼女はおもむろに喋り始めた。その場から立ち去りたいという気持ちを抑え、おれはネコのことを考えた。可哀想に。おれは怖い。とにかく怖いのだ。はい、と硬く返事をしてからおれはゴミ出しを諦めた。今は部屋に戻りたい。
「あの、お聞きしたいんですけど。いつまでその夢追い、してるんですか?」
束になってる黒髪の透き通った感じが好きなのに、この人は変なことを言う。だから嫌いだ。だから嫌だ。話しかけないでくれ。おれにこれ以上話しかけないでくれ。ひゅっ、と喉の奥で音がして頭がぐらぐらした。黒い袋の中で、ぐちゃぐちゃになったネコを思う。つぎ、殺されるのは俺か?蹲み込んだおれをみて、聡子はどっかに行った。右側の部屋に入っていった。
とてつもなく綺麗で、大嫌いな隣人は健康を蝕む。おまけに殺ネコ者だ。こんな部屋早く出て行きたいのに。ベタベタに緑に塗られているナンセンスな床がおれに向き合って、バーカと言っていた。
時計を見た。三時だ。こんな時間にアラームかけたっけと考える。そんなわけがないのだ。
はっ、と気づく。
サイレンだ。外から聞こえる。カーテンを開けると人影が見えた。目を凝らす。彼だ。やっぱり彼だ。捕まるようなことをしたと、すぐに理解できる。近所迷惑、不審者扱い、騒音、そんなあたりだろう。彼は最近、変な格好をして歩き回っていると噂になっていた。隣人としてたまに見かけたりすることはあったが、ぶつぶつと呟いて去るばかりであった。ゴミ出しの途中で蹲み込んだ彼をみて、追い込まれているのだろうとは思ったがここまでだったなんてという言い訳を考えた。
「ネコを殺さないでください」
静けさに響くサイレンにかき消されない声が
「ネコ殺しがいる」
死ぬまで騒音を作るつもりなのだろうか。耳にノイズキャンセリング付きのイヤホンをねじ込む。さよなら。今日はなんとしても寝なければならない。
なんとなく、先々週に宗教勧誘がインターホンを押しに来ていたのを思い出す。
かみさまとちいさくつぶやいてから、わたしは夜にゆっくり溶けた。
「おれを、殺さないでください」
おれを、おれを殺さないでください。そんな嘲った目で見ないでください。おれは、おれは誰にも迷惑をかけてない。ただ好きなものを好きでいるだけなんです。無関心で、無慈悲で、可哀想なひと、と語るその目がおれをころしてるんです。
おれたちを。おんがくは、おれにとって、かみさまなんです。たったひとつの、だれにもみすてられてふみつけられてきた、おれのかみさまなんです。
おれは、そうたださけんだ。なにもみえないなかでたださけんでいたのだった。
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