Prologue

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Prologue

 ぴちゃり、水の跳ねる音がする。  上と下の区別がつかない、そんな奇妙な浮遊感の中で、ミナミはゆっくりと呼吸をしていた。目を見開くと、視界いっぱいに大きな水溜まりのようなものが広がって、どうやら自分はその水面の真上に、ただ一人、ぽつんと立っているらしいことを知る。  水溜まりは、見れば、ただの水溜まりではなく、いくつもの色がごちゃごちゃと、それぞれの好きなようにさわさわ泳いでいて、ほかの色と混じりあったり、混ざらなかったり、違う色に変化したり、自分のままを貫いたりしている。こういうのを、マーブル色と言うのだと、昔、誰かに教わったのを思い出した。  マーブルの水溜まりは、前を向いても、後ろを向いても、遠くの方にまでずっとずっと続いている。地平線が見えないから、きっと、ここは、どこまでも平坦な世界なのだろう。水溜まりはとても大きくて、広くて、まるで海のようだと、ミナミはぼんやり考えた。  海だと思うと、不思議なことに、微かに潮が香る気がするのである。そして、同時に少し肌寒くなって、両腕を抱き込むようにして身をさする。  ミナミは、海をあまり好かない。  幼い日、泳ぎが下手で波に攫われたり、水に触れることを諦めて浜辺で遊んでいたときにも、澄ました顔で砂の上を横歩きするカニに、足の指を挟まれたり、そういう事がしばしばあったからである。その度にべそをかいて泣いた。だから、学校帰りのクラスメイトが揃って素足を晒し、波打ち際で水を掛け合うときにも、ミナミはそれに加わることはせずに、その楽しげな様子をよく眺めていた。ただ眺めていただけではなく、岸辺に並べられた色とりどりのランドセルの見張り番をしていたのである。海で遊ぼうとしないミナミのことを、クラスメイト達は何度か誘いはしたものの、涙目で首を横に振るところを見て、無理は良くないと気を遣ったのであった。それに、荷物を放って遊ぶことにも少しの抵抗があったので、遊ばないと頑ななミナミが見張っていてくれることは、クラスメイトには有難かったのだ。やはりカニは澄ました顔で横歩きをしていたが、見張り番のミナミは、素足ではなく分厚いシューズを履いていたので、足の指を挟まれることもなかった。その上、自分のものとは違って綺麗な色をしたランドセル達を眺めるのは、ミナミにとっても楽しいことであったから、双方にとって都合が良かったのである。  そう言えば、このマーブルの海の色彩は、あのとき並んでいたランドセルの色に少し似ているような感じがした。  海は好きではないが、このマーブルの海ならば、少しは楽しい気持ちになれるかもしれないな。そんなことを考えて、ふと、ミナミはあることに気が付いた。  水の音がする。  ぴちゃり、ぱしゃり、先からたまに聞こえる音とは違うもの。水の動くそれには違いはないが、もっと重々しく、胸に暗い感情を齎すような、蠢く波の音に近いもの。一体何処から聞こえているのかと不思議に思い、見渡すと、マーブルの海の水面の上で足が動くのに合わせて、やはり、ぴちゃりと水の跳ねる音が重なった。  一歩進むごとに波紋がさらさら広がって、マーブルがフルルと揺れる。水の上を歩いているというのに、普段使いのシューズにマーブルが染みて重くなる、ということにはならなくて、何だか面白い。童心に帰って、無意味にぴちゃぴちゃと遊びたくなってしまう。ミナミは海は好まないが、雨上がりの水溜まりは日照りが反射して美しいので、好きであった。  振り返る。  遠くに目を凝らす。  音の出処は見つからない。この、蠢く波のようなものの正体が何なのか、気にするようなことではないかもしれないが、何故だかどうしても気になって、ミナミは、何度か、代わり映えのない景色の中をくるくると見渡してみた。マーブルの渦が更にくるくるして、目が回りそうである。  そうしているうちに、どうやらこの音の『主』は、今見えているところにあるのではないことに気がついた。  ざぶん。音は、真下から轟いていた。 「なにかいる」  マーブルに隠れて見えないもの。足元の水の流れが変わり、ミナミの挙動以外の規則性でゆったりと動き始める。僅かに透過している水面下に、何か、ヒレのある生き物が、悠々と泳いでいるのが見えた気がした。その魚影は段々と浮き上がってきて、やがてマーブル色が黒く濁る辺りにまで近くにやってきたところで、思っていたよりも、あまりにも大きいそれを見て、「クジラだ」と思ったのである。  マーブルの海が、大きく跳ねる。魚影の主が水から顔を出して、ミナミは仰天した。  そのクジラは、艶のある金の髪を棚引かせていた。  そのクジラは、発色の良い赤い唇の端をきゅっと持ち上げ笑っていた。  そのクジラは、淡雪ほどに透ける白い肌を誇るように、まざまざと見せつけるようにして、悠々と一回転をしていた。  そのクジラは、どこまでも暗い海の底を瞳の中に閉じ込めて、遠くの方を見ていた。  この海と同じマーブル色のヒレが、尾が、ざぶんと音を立てて波を蠢かすのを、ミナミは呆然と見送る。これは、何だろう。いつか、どこかで見たような、この女性は、誰だっただろうか。  クジラを思わせるほどに巨大なその生き物は、美しい人魚の形をしていた。  御伽噺にしか聞いたことのない、想像上の生き物、そのものであった。  通り過ぎ、また水の下へ潜って行った彼女は、もう一度同じようにして顔を出し、また潜り、顔を出し、と、自由にマーブルの海を行き来している。ミナミなどには目もくれず、ただ、ざぶんざぶんと海を騒がせて、悠々と泳ぎ続けていた。  ミナミは、その光景を、何故だか恐ろしく思ったのである。理由はわからない。巨大なものが目の前にあることが恐ろしいのか、意図のわからないものが動いていることが恐ろしいのか、はっきりとしない。ただ、ちっぽけな自分が掻き消えてしまうような、そんな恐怖を漠然と抱いた。  ホ、と人魚が音を発した。  ホ、ホ、と繰り返した。その中にも高い『ホ』や、低い『ホ』が連なって耳に届き、人魚が歌っているらしいのを理解した。これもまた理由がわからないのだが、今度はこの歌に、何か大切なものを奪われそうな気がして、思わず一歩後退る。ぴちゃり、と足音が鳴ったのに人魚が反応して、深い群青色と、目が合った。 ――ミナミ。  声に、呼び掛けられた。  声の出処は人魚だろうか。しかし、美しい唇を見ても、それは相変わらず『ホ』と歌声を響かせて、ミナミを怖がらせるだけ。では誰が自分を呼んでいるのだろうか。人魚の目線から離れることが、少し不安でありながらも、後ろを振り返って駆け出した。  何度も、何度も、呼ぶ声。こっちの方から、いやあっちの方だと走り回って、ようやくそれの正体を掴んだ時―― 「ミナミ!」  布団を引っペがされる嫌な感覚がして、明晰に声が耳に入り込んだ。  薄く目を開けて、惚けた頭のまま、腕でごしごしと顔を擦りながら、ぼんやり映る景色を徐々にはっきりさせて行く。嗅ぎ慣れた木の匂いと見慣れた風景の中で、布団を引っペがした勢いのままセーラー服のスカートを揺らしている女の子が、仁王立ちで立っていた。  さっきの人魚に負けず劣らず美人だなあ。  寝起きののんびりとした頭で考えながら、おはよう、と声を掛ける。 「もー、やっと起きた!」  マーブル色の海も、人魚も、どこにも無かった。
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