Episode 01

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 そういえば、ミナミ、うなされていたよ。  ハムを箸でつつきながら、ハナちゃんが言った。どうやらこの味付けが気に入ったらしく、先から何枚も口に運んでいるのだ。これはお隣さんとの会話の中に出た酒のつまみの作り方を、今日、適当な匙加減で自分なりにアレンジしたものだったが、思いがけず好評のようなので、ミナミはハナちゃんが気に入ったレシピをしっかりメモに取って記憶しておくことにした。  それはそうと、うなされていたという話。  そういえば夢を見たのは久しぶりだと感じたが、しかし、その夢が魘されるような内容であったかというと首を傾げるところ。言い淀んでいると、ハナちゃんは水を口に含んで、こくんと喉を鳴らしたあと、「聞かせて」とおねだりをした。 「夢で、大きな人魚が、綺麗な色の海を泳いでいたの」  すると、ハナちゃんは目を輝かせた。彼女は、御伽噺が好きなのだ。もう一度ハムに箸を伸ばしながら、人差し指を立てて得意げに話す。 「人魚といっても、いろんな種類があるよね」 「そうなの?」 「うん。ローレライ、メロウ、メジュリーヌ、とか、色々。頭が魚で、下半身が人間なんてのもあるよ」 「へえ!」  メジュリーヌは蛇の鱗を持っていたので、人魚というよりは蛇女なんだ、等、熱心に説明するハナちゃんの話を聞いて、流石、詳しいなあ、と感心する。ミナミの知る人魚といえば、一般的に認識されているそれと全く同じで、頭は美しい人間の女性、下半身は金魚のような光沢の鱗、透き通った尾ヒレで、その逆や、蛇女というのは初めて聞いた。頭が魚で下半身が人間だなんて、なんとも不気味で、どちらかと言うと妖怪のようだ。  正直に言うと、ハナちゃんはコロコロと音を転がすようにして笑った。 「日本の人魚は、妖怪みたいなものだよ。古今著聞集って知ってる?」 「知らない。なあに、それ」 「鎌倉時代の説話集よ。諸説あるけど、そこに出てきた人魚は、ただ頭が人間というだけの人面魚だったんだ」  そう言うと、ハナちゃんは空になった茶碗と他の食器を集めて、流し台の方に持って行く。ふと、テレビの方に目をやって、「やー、なんだか物騒だねえ」と大人のようなことを言ってから、一度部屋に戻っていく。多分、人魚についての資料か何かを探しに行ったのだろう。見てもいないのに、付けっぱなしのテレビには、昨日起きた人身事故のニュースが流れていて、ミナミはぼーっとそれを眺めながら、ハナちゃんが寄せて残しておいてくれたハムを口に含む。少しオリーブオイルが強過ぎるような気がした。  確かに最近、この街は事故が増えたように思う。ハナちゃんではないけれど、物騒だなあ、と同じ感想を抱いた。 「あった。これ、見て」  ハナちゃんがバタバタと走りながら戻ってきて、一冊の本を開いて見せた。指を差したところには、確かにさっきハナちゃんが言ったような人面魚の挿絵が載っていて、ミナミは「うぇ」とくぐもった声を出す。まさしく妖怪のそれであり、夢で見た人魚とは、似ても似つかなかった。 「面白いでしょう」  ハナちゃんは、楽しそうだ。よくわからないとは言えず、曖昧に笑って受け流した。  そのとき、途端に遠くの方からバタバタと落ち着きのない音が聞こえた。具体的には、キッチンの向こう側の壁から、お隣さんの騒ぐ音が聞こえるのである。それを合図にして、ミナミ達は、もうそんな時間かと、どちらともなく時計を確認した。お隣さんは今日もギリギリの起床であり、そんな彼女の心境をよそに、長針と短針は素知らぬ顔で七時三十分を示していた。  ミナミらが通うのは、町内にひとつしかない坂の下の中学校である。一限目に間に合えば遅刻にはならないので、比較的朝はゆっくりだが、大人というのはそうもいかないらしい。ミナミが朝食を終えて、バタバタが落ち着いた頃合になって、双子はそろって玄関先まで顔を出して、そろそろ出てくるであろう隣人の姿を待った。  三、二、一。 「おはよう、双子ちゃん!」  バァン、と扉が開いて、食パンを加えた妙齢の女性が現れた。解きほぐされた黒髪のセミロングに、キリリと山を描く眉は、パキッとした『デキる女性』の印象を周囲に与えるが、しかしどう繕ったところで、この人が寝起きの人間であることを双子はよく知っていた。いつも帰るのが遅いから、連動して、起きるのに苦労しているようなのだ。社会人というのはタイヘンな生き物なのである。 「おはようございまーす」 「おはようございまぁす」  口々に挨拶をして、赤い風呂敷をひとつ手渡す。いつも悪いね、と言って、彼女は風の如くに走り去って行った。  ミナミとハナちゃんが暮らすマンションの、正面から見て右側の部屋で、一人暮らしをしている片桐さん。彼女の朝はいつも慌しく、食パンを咥えて家を出ているのを二人はよく目撃している。最近は朝が忙しい彼女のために、ミナミはお弁当の数をもう一つ増やして渡すビジネスを始めたのだ。その代わりに、週に1回、駅の近くのファミリーレストランで夕飯をご馳走してもらう契約なのである。  双子は、初めのうちはそんな風に何かを返してもらうつもりは全く無かったのだが、毎日フルタイムでパキパキ働くOLにとって、普通の中学生にタダでご飯を貰うというのは、あまりにも大人気ない話。といって、お金を拒む双子を説得することに失敗したので、週一のディナーで返礼をする約束を取り付けたのである。双子は大喜びし、主に甘いものを中心にキャッキャとはしゃぎながら注文をして、片桐さんの顔を綻ばせるのであった。  ふと、片桐さんの青い車が走り去っていくのを見つめていたミナミは、あることに気が付いて口を開いた。 「片桐さん、今日はいつもより遅かったね」  そうなのである。今朝、ミナミが寝坊したこともあって、感覚が違っていたけれど、いつもよりも起きる時間が三十分程度遅かった。片桐さんは、お寝坊さんではあるものの、起床の時間はいつも大体同じだから、珍しいように思う。 「ミナミ、昨日の片桐さんの服装、覚えてる?」 「あ……う、うん」  それを聞いて、思い出す。  昨日の彼女は、普段のスラッとしたパンツスーツスタイルではなく、黒いジャケットに黒いスカート、首に淡く発色する真珠を付けていた。鞄もビジネス用の大きなものではなく、小ぶりで、やはり黒がベースになっていた。  喪服、であった。  怪訝に思って眉根を寄せたミナミに、ハナちゃんが少し遠い目をしながら答えを寄越した。 「お父さんの一回忌なんだって」  ミナミは、ハッとした。去年の今頃、片桐さんは塞ぎ込んでしまって、みるみる痩せてしまったので、だからこそ今のお弁当のビジネスが始まったことを思い出したのだ。あれから時間が経って、ミナミの弁当以外のものも喉を通るようになったはずだけれど、今日、法事の食事が有るはずなのに、弁当を頼まれていたのは、もしかしたらまた思い出して、弱気になってしまっているのかもしれないと思った。  片桐さんは、いつも快活で、しっかりしているように見えるけれど、実は、かなり繊細なところがあるのだ。 「目が少し腫れていたから、もしかしたら、昨日、泣いていたのかもしれないね」  ハナちゃんがぽつりと零すのを聞いて、少し、しんみりとした気持ちで頷いた。
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