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この街は、全体的に、縦長にできているとミナミは思う。
実際に地図などを見ると、全くそんな形にはなっていないのだけれど、しかし、実際に歩いてみると、緩やかなカーブ達にその全貌が隠されて、ゆく道という道が全てひとつの坂の上に並んでいるような気がするのである。上の方から住宅地が連なって、夜には坂の形に沿って灯りが点々と続くような、そういった光景が、遠くの方からは見えているのだと、そんな風に思うのだ。
坂の麓には、中学校があって、朝は同じ制服を着た者たちが揃って同じ方向へと坂を下る。夕方になれば、日が暮れるよりも前にそれぞれの家へと登っていく。代わり映えのしない時間達は、こうして坂の基盤の上に成り立っていて、ミナミはきっとこの地面でなければ歩くことも難しいのだろうと、ぼんやりと考えながら、楽しげに御伽噺の講釈を垂れているハナちゃんとの歩幅を揃えた。
坂の一番下にある学校に行くまでには、ただ下れば良いというわけではなく、いくつかの曲がり角や、大通りを抜けなければいけない。真っ直ぐ向かっても辿り着くのだが、街灯が少なかったり、細道だったりして、大人達が危険だと決めたところであるので、学校の定めた安全な登下校ルートというものを、真面目な双子は逸れることなく行くのである。
その道の途中、大通りに入る道と連なったところに、噴水広場がある。名前の通りに、中心の目立つところで堂々と存在を知らしめる噴水が、いつも高い水柱を作り上げ、石の囲いの中を波立たせているのだ。そして、そこから円を描くようにカラフルなタイルの敷き詰められた石畳の上、道行く人が休憩できるベンチや、子供達が遊べるジャングルジムなんかも設置されている。商店街からそのまま繋がっていることも相まって、ここには良く人が集まるのだった。
目的の花屋は、この噴水広場を抜けた少し先にある。唐揚げが好きな秋月さんは、早くに花の仕入れを終えて、今頃は開店準備をしていることだろうから、その時間に少しだけお邪魔して、入ったばかりの瑞々しい花たちの顔を見るのが、ミナミの日々の楽しみであった。毎日、毎日、真面目に通うので、ハナちゃんには、秋月さんと恋人のようだと良く茶化されるのだが、そんな予兆は万に一つもないのである。
ミナミは花が好きだ。
そう、ミナミが大好きなのは。
隣でキラキラと黒髪を反射させる少女を横目に見ながら、自慢の妹だなあと微笑んだ。
「でも、彼、お昼ご飯に困ったりなんてしていないでしょう?」
「だって、秋月さん、すごく痩せているから。きっと栄養が足りていないんだよ」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
「ミナミったら、変なの。何だか秋月さんの親御さんみたいね」
「それに、お弁当と交換で、野菜の種とかもくれるから」
「種じゃなくて、実が欲しいー」
あーあ、ミナミがおばあちゃんみたいになっていくー。そう言って嘆くハナちゃんは、ミナミの男っ気の無さをいつも心配しているのだ。まだ二人は中学生で、男っ気も何もあるはずが無いというのがミナミの見解なのだが、しかし、華の中学生だからこそ、恋のひとつもしなければというのがハナちゃんの意見。真っ向からぶつかり合って、いつも鈍い方のミナミに軍杯が上がる。今は色気より食い気の方が大切だし、ベランダでの家庭菜園というものも、やってみれば結構楽しいものなのである。
噴水広場に足を踏み入れたとき、今日はいつもと少し景色が違っていることに気が付いた。
キラキラと輝く飛沫を透かした向こう側、一箇所に人がわらわらと集まっていて、誰かの張る声に熱心に耳を傾けているのが目に入る。誰だろう、と疑問に思うのと、その人の後ろに控えた選挙カーの固有名詞が目に入るのは、ほぼ同時であった。
「あ、朽葉議員だ」
噴水広場を挟んだ向こう側で、最近よく見かける、政治家の朽葉議員が朗々と演説をしていた。今日もカチッとスーツが決まっていて、立ち姿が凛としていて、ミナミはほーっと感心して、溜息を吐いた。
朽葉議員は、ただの吹き抜けだった土地を利用して、この噴水広場を作った人の、二代目である。若くて、顔がとても格好良くて、背も高い。近くで見たことはないけれど、遠くから見ていても格好良いのだとわかるくらいである。声も良く通って綺麗なので、この噴水広場のキラキラとした雰囲気が、とても良く似合う男性だ。集まって演説を聞いている人達は、比較的、女性が多く見受けられるが、その理由は明白であった。集まっている女性の中に、ミナミらと同じセーラー服を来た登校中の女の子達まで混ざっているのが見えて、皆、朝から難しい話を聞いて、眠くはならないのだろうかと不思議に思った。
実のところ、ミナミ自身は、朽葉議員のことを、そんなに良く知っているわけではなかった。見た目が良いことはわかるのだが、それを理由に、誰かの清き一票が投入されるわけではないこともわかる。そして、この噴水広場を作ったのは彼の父親であり、二世の彼が何かをしたわけではない、と片桐さんがボヤいていたのも聞いたことがあったので、総じて、特に思うところもない。片桐さんが彼をあまり好かないらしい、ということだけは何となく伝わっている。多分、思想とか、政策とか、その辺りのものが違うのだろう、とミナミは勝手に思っている。
不意に、朽葉議員がこちらに目線を寄越した……ような気がした。
「!」
そして、その瞬間に、何故か隣に居るハナちゃんが、僅かに息を呑む気配がしたのだ。違和感を覚えて様子を見ると、彼女は朽葉議員の方向へ浅く会釈をしていて、ミナミは眉根を寄せた。
「ハナちゃん、知り合い?」
つい、尋ねる。
しかし、ハナちゃんはけろりとして素知らぬ顔である。
「ううん。偉い人って、礼儀とか、五月蝿そうだから」
そういうことなら、私もちゃんと会釈をしておくべきだったな、とミナミは反省して、もう一度朽葉議員を向き直る。しかし、彼は既に違う方向を向いていて、もう一度こちらを見るような感じはしなかった。
ハナちゃんが時間を気にしながら、早く行こう、と手を引いて広場を抜けていく。
お陰で、礼儀云々のことは有耶無耶になってしまって、あっという間に花屋の前まで着いてしまったミナミは、噴水広場に後ろ髪を引かれながらも、ごめんくださいと店の奥へ声を掛けた。
目的のひとは、すぐに見つかった。
少しヨレたシャツとの袖と、黒のパンツの裾を、少しだけ巻き上げて涼しげなスタイルだ。その上にピンク色のエプロンをしているから、もしミナミがここで初対面だったならば、初めのうちはミスマッチに見えたかもしれないけれど、見慣れると、何処からどう見ても普通の花屋さんに相違ない。秋月さん、と声を掛けると、彼は作業の手を止めた。
「ん?ああ、ミナミだ」
「おはようございます」
「おはよう。美花ちゃんも」
美花ちゃんというのは、ハナちゃんのことである。昔、二人で見たテレビドラマに出てきた悪い女の名前が『ミカ』だったので、幼き日のハナちゃんはそれを大層嫌がって、ハナという渾名で呼ぶようにと言われたのだ。今となっては、他の人達は皆揃って彼女を美花ちゃんと呼ぶのだが、ミナミは未だにその頃の癖が抜けずに渾名で呼び続けている。
花を並べて腰を屈めていた秋月さんが、ぬらりと背筋を正位置に戻し、低くて落ち着いた声音で、穏やかに挨拶を交わした。思わず見上げるほどに背が高いのだ。もしかしたら、背が高くてカッコいいと評判の朽葉議員よりも高いかもしれないのだが、しかし、彼には猫背のきらいがあるので、正確なところはよく分からない。しかし、身長の割に身体はゴツゴツと痩せていて、やっぱり栄養が足りていないのだ、ということだけは良くわかるのである。
秋月さんは、肌も白い。褒めているのではない。不健康な見た目に拍車を掛ける蒼白色ということである。髪は中途半端な長さをしていて、いつも何処かしらに寝癖がついているのだ。大人なのに、ズボラである。彼を見ていると、何故だか、しっかりしなくては、という気持ちが心の何処かから湧き出てくる。そうして、毎日せっせと弁当を運ぶのである。
「『美花ちゃんも』って、私はついでみたいな言い方ね」
「?」
「いいのよ。秋月さんがミナミに用があるのは、わかっていることだもの」
言葉だけを聞いて、ハナちゃんは、怒っているのかと思ったけれど、しかし、彼女は部外者のような扱いをされたことを言及しているのではなく、寧ろ、少し上機嫌になって、ごゆっくり、なんて言葉を残して、店の外まで退場していった。さっきの会話で、食い気より色気に持っていきたいのだなと察したミナミは口をつぐみ、まるでわかっていない秋月さんは首を傾げている。
「美花ちゃん、機嫌が良さそうだね」
「うん……それよりも、これ。どうぞ」
青い風呂敷に包んだ、少し大きめの弁当箱を手渡す。秋月さんの顔がパッと明るくなって、ホワホワと温かい何かが流れ込んでくるような感じがした。秋月さんはとてもマイペースな人なのだが、マイペースが過ぎて、偶に、感情が他人に伝わり過ぎる、ということが起きる。立っている空間ごと自分のムードに巻き込んで、感性を共有させてしまうような、そういう不思議なものを常に放出している人なのだ。ミナミは他者に感化されやすい性質なので、そんな秋月さんのマイペースにぐるぐると翻弄されることが儘あり、考えていることが、それとなく、漠然と、理解出来てしまうのだ。ミナミとは違って、感受性が変わったところに働くハナちゃんは、その場にいても、良くわからないと肩を竦める。秋月さん本人は、自覚がないようで、のほほんと笑うのが常であった。
ところで、このホワホワとした温かいものは、彼が喜んでいるときに良く流れ込んでくるものだ。ミナミはこれを受け取る度に、お弁当作って良かった、という気持ちになるのである。
そういう話をすると、ハナちゃんには、子供を甘やかしてしまう母親みたいだと笑われてしまった。
しかし、秋月さんは子供ではなく、立派な成人男性なのである。
彼もまた片桐さんと同じく、大人として、ただ中学生に弁当を貰うだけな人間に成り下らんとしているわけではない。ありがとう、と一言添えて、ポケットから食料保存袋に入れられた花の種と、育て方のメモ紙を取り出した。
「僕からも、お礼」
袋にはマジックで上から『ルッコラ』と書かれていて、知らない単語を目にしたミナミは、うん?と眉を持ち上げる。果物のような名前だけれど、最近の彼がくれるものは野菜の種ばかりなので、ルッコラというのもまた、野菜なのかもしれなかった。
「珍しいかい」
「初めて見ました。どういうものなの?」
「イタリアンのお店で、良く見掛けるかな。生で食べられるし、ゴマみたいな香りもして、炒めても美味しい」
ふむふむ、とメモに取りながら話を聞く。秋月さんは、いつも弁当のお礼と言って何か果物をくれていたのだが、いつの頃からか種や球根をくれるようになって、家庭菜園はすっかりミナミの日課となっていた。ラインナップは、ミニトマトというオーソドックスなところから始まって、バジル、芽キャベツ、セロリと増えていき、今回のルッコラである。ベランダがそろそろギチギチに埋まってきているので、整理の必要が出てきているのが、この頃の専らの悩みだ。
因みに、これは売り物の花とは全く無関係で、秋月さんが趣味で育てている野菜の種をお裾分けしてもらっているのである。そういうビジネスなので、店の営業とは全く何の関係もない。ハナちゃんは、家でも植物を育てているのかと呆れていたけど、ミナミは、余程野菜が好きなんだろうなと感心していたのだ。だからこそ、彼が唐揚げを好きだとカミングアウトしたときには驚いたのである。
「それにしても、毎朝大変だろう。お弁当」
「ううん。料理、楽しいから」
「そうか。それは素敵なことだね。ミナミは、いいお嫁さんになるんじゃないかな」
秋月さんがそう言って微笑むのに合わせて、店の外側から、「でしょう!」と自慢げなハナちゃんの声が聞こえた。「ミナミは胸も大きくて素敵なのよ!」とおかしなPRまで始めてしまう。往来で、しかも人の多い噴水広場が近い店の前で、そういうことを大声で言われてしまって、ミナミはウッと尻込みした。恥ずかしいったらありゃしない。
ハナちゃんは胸が少し小ぶりだから、ミナミのそれを羨ましがるのだけれど、ミナミにはハナちゃんくらいにスレンダーな方が、格好良くて素敵だと思うのだ。それに、こんな年齢で胸が大きいなんて恥ずかしいし、大人になってから、重力に負けて垂れたり、萎んだりする時期だってきっと早くなるに違いない。
秋月さんは、胸の大きい人は好きだな、なんて、相変わらずドのつくマイペースで、のほほんと言っていた。ミナミは少し呆れて嘆息する。この人は多分、恋愛の云々なんて、ミナミ以上にわかっていないのである。
「ゆくゆくは、いいお嫁さんになれたら良いなって思う」
秋月さんの直接的な褒め言葉はいつものことだ。それにしたってお嫁さんだなんて、まだまだ現実味がないので、やんわりと受け流した。
その矢先。
「ホウホウ、恋バナというやつかな」
折角話を終わらせようとしたのにも関わらず、店先から一人分、影がぬらりと入り込んできて、あろうことか話題を引き延ばさんとする。杖をついてコンコンと歩く初老の男性が立っていて、その姿を見止めると同時、ミナミは破顔した。
「町長さん、どうも」
秋月さんが穏やかに会釈をするのに倣って、ミナミも軽く頭を下げる。表の方から、ハナちゃんもパタパタと歩いてきて、挨拶をしていた。この町長さんという人は、本当にこの町で町長をしているわけではなく、マチナガさんという名前の人柄の良いお爺さんで、町内会の人気者だ。本当の町長までもが『チョウチョウさん』と呼んでいるのて、すっかりその名前で通ってしまっている。しかも、まだミナミ達が生まれるよりも前には、本当に選挙に立候補して、役所で町長の仕事をやっていたこともあるのだそう。今は、定年を迎えて、こうして朝の散歩をしたり、時折、両親が常に不在であるミナミらの保護者代わりに学校の行事に参加をするなどして過ごしている。ミナミは、自分達を孫のように可愛がってくれる町長さんが大好きなのであった。
「珍しいですね、こんな時間に。何かご用命ですか」
穏やかに尋ねる秋月さんは、まだ開店前だということは敢えて伝えなかった。町長さんは、ホケホケと笑って、目の横の皺を深くした。
「いんや、伝言を頼みたくてな。これで、ハイビスカスか、えー……菖蒲でも送っておいてくれんか」
店内をぐるりと見渡しながら、ハイビスカスが見当たらないことを確認した町長さんが、次に出した花の名前を聞いて、ミナミとハナちゃんは揃って顔を見合わせた。ハナちゃんは、花のことには詳しくないけれど、しかし、ハイビスカスと菖蒲がまるで違う形をしていることは自明である。少しは知識のあるミナミは、変だね、とアイコンタクトを送り、ハナちゃんは肩を竦めて心境を示した。見兼ねて、秋月さんが、「花言葉があるんだ」と短く解説を添える。なるほどぉ、と同じ仕草で納得をする双子を見て、町長さんはまたホケホケ笑った。
町長さんから幾らかのお金を受け取った秋月さんは、金額に見合う花を見繕いながら、それにしても急な伝言ですね、と言う。双子には何の話をしているのかはさっぱりわからなかったけれど、彼らには彼らの事情というものがあるのだと、大人ぶって身を引いた。
「今朝、人魚を見てな」
出し抜けに町長さんが言ったのを皮切りに、そんな風に気を使う概念というものは吹っ飛んでいった。
「人魚!」
ミナミはぎょっとして町長さんを見やる。人魚と聞いて、真っ先に思い浮かぶのが、今朝、ハナちゃんに話をしたばかりの夢のことであった。夢では大きな人魚が、マーブルの海の上を優雅に泳いで歌っていた。たかが夢であるはずなのに、それが妙に胸に引っ掛かって、ミナミは、針に食いつく魚の如く前屈みになって、ぐいと町長さんの前に身を寄せた。
御伽噺が好きなハナちゃんも、同じように身を寄せた。
秋月さんは、のほほんとしている。
「なに、夢の中の話ですよ。エラい別嬪の人魚が海を泳いでいてな、ついにお迎えが来たかと疑った……」
「やだな。町長さん、まだ若いじゃないですか」
町長さんが語り、秋月さんが相槌を打ち、ハナちゃんが「なんだぁ」とがっかりする傍らで、ミナミだけは少しの興奮状態に陥って、更にぐいぐいと身を乗り出す。美しい人魚ならば、ミナミだって、今朝の夢の中で出会っているのだから、これはすごい偶然である。
それはどんな人魚だったか、クジラ程に大きかったか、髪や瞳は、海の色は、潮の匂いは、どんなものだったのか。必死になって尋ねている隣で、ハナちゃんが驚いたようにミナミの腕を掴んで引き止めた。それのお陰で、少しだけ冷静になって、一歩後退すると、秋月さんが、変わらない調子と表情のままに問うた。
「どうしたんだい、ミナミ。怖い顔だ」
え、と我に返った。怖い顔だと指摘されて、つい、自分の顔を触れて形を確かめてしまう。そうして、確かに秋月さんの言う通り、知らず表情が強ばっていたらしいことを知って、今度は、みるみる申し訳のない気持ちになっていった。
「私も人魚の夢をみたの」
正直に告白した。
「人魚が泳いでいる夢」
秋月さんが、最初に口を開いた。
「そうか……じゃあ、ミナミは心細かったのかな」
「かもしれない。広いところに、一人きりだったから」
答えると、秋月さんは花を束ねる作業を止め、長い腕を伸ばしてミナミの頭の上へと持ってきた。ぽんぽんと上で跳ねている手を、何となくそのまま受け入れて、ミナミは町長さんへと向き直る。ハナちゃんが怪訝な顔で「なに今の、テレパシー……?」と呟いていたのは、耳に入らなかった。マイペースな人間には、マイペースな人間同士の、目には見えないコミュニケーション方法が存在しているのである。
町長さんは、コホンと咳払いをしてから、見た夢の人魚について語って聞かせた。
「私が見たのはね、美波さん、君も昔見たことがある人魚だよ」
「私も?」
「そう。美花さんも見たことがあっただろう。坂の上のアトリエにある、絵画の人魚だ」
双子は、同時に「あっ」と声を上げた。そういえば、町長さんは、昔からよく人魚の絵を描いていたのだということを思い出したのである。いつからか、遊びに行くことがなくなっていたけれど、確かに二人はアトリエの人魚のことを知っていたし、ミナミは、あの人魚の絵が子供のときにはずっと好きだった。美しくて、どこか冷たさを孕むような、凛善とした人魚の姿。御伽噺の姫のような儚さは、ひとつもなく、ただ迷いのない静かな佇まいで、陸と海の間の岩石に座っている。
そうだ、あの人魚だ。
夢の中の人魚とアトリエの人魚の姿が符号して、それならば、町長さんと自分がみた夢の人魚が、同じ形をしているはずだと確信する。同じタイミングであったのは偶然だとしても、漠然と、不安定に揺らめいていたものの落とし所として、相応しい解を見つけたような気持ちになった。そして、であればあのマーブルの海は絵の具の色だったのだと得心がいった。人魚の正体が絵画であるとわかってからは、怖いという感情も次第に薄れていって、そして見計らったように、頭の上を好きに跳ねていた秋月さんの掌が離れていく。
「時に、少女達よ」
町長さんが、ホケホケと笑いながら言った。
「そろそろ、一限の鐘が鳴るのではないかな」
途端、ハナちゃんが今朝の片桐さんのような顔になって、ミナミの手を引き走り出した。
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