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ぴちゃり、水の跳ねる音。
ああ、またマーブル色の海だ、と ミナミはゆっくり目を開く。海の香りが漂っていたはずのそこは、町長さんの話を聞いたからか、今度は絵の具の匂いで充満していた。ミナミは、あまり絵が得意ではなくて、美術の時間などは好きではないのだが、その昔、町長さんのアトリエに通うことが好きだったので、絵の具の匂いは好きである。海は好かないけれど、この海ならば、いつまでも眺めていられるような、落ち着いた気持ちになるのであった。
ぴちゃり、ぱしゃり。また、重々しい水の動く音。人魚が近くまで来ているのだろう。ミナミはぐるりと辺りを見渡して、クジラほどの大きさの影を探した。
歩きだそうとして、気付く。少し歩き辛さを感じたのである。
前にこの夢を見たときには、水溜まりの上を歩くように水面を揺らしていたというのに、今は、靴がマーブル色の下に沈んでしまって、足首までとっぷりと浸かっていた。さっきまで、そんな感じはしなかったのに、と、濡れないことをわかった上で、何となく裾を託し上げて、前へ進む。少し足元が重く感じたけれど、問題なく歩くことができた。
人魚は何処だろう。
探しながら、歩く。近くに居ることはわかっているというのに、何故か、変わらない景色の中に、その影は浮かび上がってこない。代わりに、ホ、ホ、と歌声が耳に届いて、ミナミは、あれ?と振り返った。
真後ろに、大きな顔があった。
「人魚!」
艶のある金の髪。
発色の良い赤の唇。
淡雪ほどに透ける白い肌。
暗い海の底を閉じ込めたような色の瞳は、前は一度も交わることのなかった視線を、まっすぐにミナミへと向けていた。その、巨大であっても美しいとわかる顔面を前にして、ミナミは、何故だかとても悪いことをしたような気持ちになって、後ろへ下がる。
ホ、と歌うだけだった人魚は、どうやら、それ以外の言葉を発しているようだった。声は聞こえない。どんなに耳を澄ましても、歌声以外は聞こえないのだけれど、しかし、その旋律に乗って、ミナミの頭にだけ届くような、小さな音で、何かを言っている。何を言っているのか、聞き取れなくて、ミナミは目の前の大きな唇の動きを良く観察した。どうも、人魚は、ひとつの短い言葉を、何度も、何度も、繰り返しているように見えた。
上唇と下唇が触れ合わさり、横へきゅっと伸びる。
『ミ』。
舌先が前歯裏に少し当たって、唇が窄む。
『ツ』。
喉奥が締まり、抜けるように泡沫が漏れる。
『ケ』。
『タ』。
最後。
笑顔と共に吐き出された音を聞いて、ミナミはぶるりと震え上がり、後ろへと駆けた。マーブルの海に足を取られながら、人魚とは反対の方向へと、水面を蹴って、逃げるようにして。
ホ、ホ、と歌声が響く。
逃げなければならない、と、本能的に、理由もなく、思った。思った途端に足が動いて、笑う人魚から少しでも遠ざかるように、少しでも、遠くへ、と、ミナミを突き動かす。
マーブルの海は、右も、左も、上も、下も、わからないくらいに、延々と、同じ色で、同じ模様を作り出していて、走っても、走っても、ずっと最初の場所に留まり続けているような錯覚がする。暫く行っても、人魚が追いかけて来るような気配はなかったけれど、しかし、それでもミナミは走り続けた。
この海は広い。
ミナミの知っている海の、何倍も広い。あの大きな人魚は、きっと、少しマーブルの尾で水を煽るだけで、ミナミの歩幅で走るよりも何倍も長い距離を、一瞬で泳いでしまうのだろう。この広い海は、きっと、あの人魚の大きさに合わせて作られた海なのだ。だから、ミナミのようなちっぽけな存在は、ちんたら走っているのでは、すぐに追いつかれてしまうに違いない。
歌声が響く。
歌声が響く。
歌声。すぐ、真下から。
ホ、ホ、と。
音が聞こえた。
『アナタを赦さない』。
歌は、ミナミの大切なものを奪っていく。
初めて見たときにも、何故だか、おぼろげに、恐ろしく感じたものだけれど、今は、もっと、刺すような恐怖に身を包まれて、走り疲れた足がぴたりと動きを止めてしまった。
すぐ近くで響いていた、歌声がやむ。
振り返ってはいけない、と、感じた。
きっと、すぐ近くまで、人魚が来ていて、或いはミナミがここまで走ったのは全て嘘で、幻で、粒子のように霧散するただの夢のようなものだったのだとしたら。そういう漠然とした恐怖に身を支配されて、思うようにならないことに、酷くもどかしさを覚える。
ミナミは、今まで夢を見てきた中で、その登場人物や自分自身が、思い通りに動いてくれたことなど一度もなかった。今回も、多分、そうなってしまうに違いないのだ。
――ミナミ。
誰かに、呼び掛けられた。
同時に、また、ホ、と人魚が歌い始める。
途端に、今度は振り返らなければならないような気がして、くるり、足の向きを反転させた。人魚は、誰かを探すようにして、四方八方へと目配せをして、ミナミのことなど、まるで初めから気付いていなかったかのような挙動を取った。
――ミナミ。
また、呼ばれる。こっちの方から、いやあっちの方だと走り回って、ようやくそれの正体を掴んだ時――
「ミナミったら……!」
デジャブであった。
ずるりと無理矢理に意識を引きずり出されるようにして、夢から覚醒する。マーブルの海も、人魚も、どこにもなく、隣の席から小声で呼び掛けるハナちゃんの焦った声と、数名の視線、そして、仁王立ちで黒板の前に立つ、担任教師の吊り上がった目端があって、ミナミは、一瞬で状況を把握したのであった。
授業中にうたた寝をして、先生に指名された。
実に典型的なピンチである。
「ミナミ、ミナミ……!」
ハナちゃんが呼び続けている。どうしよう、どうしようと焦って、ひとまず妹を一瞥すると、彼女はノートの端をススとこちらへ差し出した。『読むべし!』という落書きの下に幾つかの英文が並べられているのを見て、ようやくその意図を察した。
「あ、あい、ますと、ふぃにっしゅ、でぃす、ほーむわーく」
「……何だ、ちゃんと聞いているじゃないか」
どうして少し残念そうなんだ。
ともあれ、ハナちゃんのお陰で難は逃れたのであった。座ってよし、と教師が言うのと同時に、へたりと着席をして、ハナちゃんの方を向いた。ありがとう、と伝えると、ハナちゃんはにっこりと笑って、「今日はオムライスが食べたい」と夕飯のリクエストをしたのであった。ミナミが快く頷いて、今度こそ寝てしまわないようにと気合を入れて、再び授業に臨むべく前を向く。
と、そのとき。
「なんだ、アレ!」
突然に、クラスメイトの男子がひとり、声変わり中の嗄れた声を張り上げ、窓の外を指し示した。教師が、「静かにしなさい!」と注意を促す中で、生徒達は聞く耳を持たず、皆一様に立ち上がったり、机の上に登ったりして、窓際に寄って行った。何事かとその方向を見ようとして、しかし、元より窓際に席を置いていたミナミは、クラスメイト達の群れた塊に覆われるようにして、机の上にぺしゃりと頭を押し付けられてしまう。ハナちゃんが、心配して、大きく名前を呼ぶ声が聞こえた。うっかり机に頭を打ち付けてしまったミナミは、視界の端に幾つかの星々をチラチラと浮かばせながらも、のっそりと起き上がって、大丈夫だと言い聞かせる。
しかし、ハナちゃんは怖い顔をしていた。
それも、ミナミを見ているのではなく、窓の外のグラウンドを、射抜くような目でキッと睨み付けている。
窓の外に、一体何があるというのだ。
ようやく群れの塊から解放されて、それを確認しようとしても、クラスメイト達はすっかりミナミの席にまで乗り上げて、とてもではないが、見ることができない。教壇に立っている教師までも、それを知ることはできないようで、何が起きているのかわからない、という顔で途方に暮れていた。ここからではダメだと察したミナミは、諦めて、自分の席が空くまで後ろに下がっていようとして――チラリ、と、クラスメイト達の隙間から見えた光景が、嫌にゆっくりと目に映ったのであった。
「……へっ?」
間抜けな声を上げてしまう。
無理もない話だ、と思いながら、自分の目を疑った。
全校生徒がすっぽり収まる、広いグラウンドの、真ん中より少し東の方向を、巨大な人魚が、泳いでいた。
「え?……え?あれ?」
混乱した。
人魚だ。人魚である。
金の髪と、赤い唇と、白い肌と、マーブル色の鱗が敷き詰められた美しいヒレを、悠然と揺らして、伸び伸びと泳いで、ホ、ホ、と歌っている。口の端をキュッと持ち上げて、愉快そうに笑っている。
そんな、バカな。
目の次は、頭を疑った。
まだ夢を見ているのではないか、と、右手を頬に持って行って、ぎゅっとする。ちゃんと痛い。
「ミナミ、行くよ!」
誰かに強く腕を引かれた。
ハナちゃんであった。
「え、どこに?」
問おうとして、全て言い切るよりも前に、ハナちゃんはミナミの手を握ったまま教室を飛び出した。舌を噛みそうになって、焦って口を閉ざしたけれど、先の方を少しだけ噛んでしまって、地味な痛みに襲われる。舌というものは、ガッツリと全体を噛むよりも、端の方を少し噛む方が、結構痛いものなのである。涙目になったけれど、しかし、ハナちゃんは構うことなく、そのまま廊下を真っ直ぐ走り始めた。
後ろから、教師が何かを言っているのが聞こえる。
授業の途中で突然教室を出たのだから、当然、怒っているのであろう。ハナちゃんが何を思ってそうしたのかはわからないけれど、彼女の手を振り払うような力を持ち合わせないミナミは、取り敢えず廊下を曲がってしまう前に、「ごめんなさいー!」と教師に向かって大声で叫んだ。
ハナちゃんは、足が速い。運動神経が、とても良いのだ。体育の授業などでは、いつも同性からの黄色い歓声を浴びている。
対するミナミは、鈍足である。運動神経が、とてつもなく悪い。お隣のお隣に住んでいる八十歳のおじいちゃんに、町内会のかけっこで負けた程である。なので、ハナちゃんの走るとんでもない速さに、何故か身体は付いて行っているものの、視界がビュンビュンと飛ぶことが恐ろしくて、速い、速い、と悲鳴を上げた。廊下を走っている間、他のクラスで授業をしていた教師までも、ミナミとハナちゃんを咎めようとして教室から顔を出したけれど、その誰もがハナちゃんの足には追い付けずに、声だけが遠のいていく。
階段を幾つも下る。幾つも下る。幾つも下る。
廊下を曲がる。走る。走る。
「ハナちゃん、ハナちゃん! どうしたの! どこに行くの!」
走って、走って、一階の昇降口から、外靴に履き替えることもせず、校門の外へ飛び出したハナちゃんに、ようやく尋ねる。ハナちゃんは、「逃げるの!」と大声を返して、ふと立ち止まった。
「こっち入って、ミナミ!」
と思ったら方向転換をして、うん、とも、すん、とも言う暇さえなく、半ば押し込まれるようにして細い道へと。双子は揃って小柄なので、大人の背格好では狭いような道を二人で共有しても、然程狭くは感じられなかった。ハナちゃんは、細道を歩きながらも、延々と話声を止めずにいる。「アレやばいよ、絶対!」と、何度も繰り返している。
確かに、やばい。どう見たって、やばい。
夢に見た人魚と全く同じ形をしたものが、水場というわけでもないのに、グラウンドを泳いでいたのだから、やばいとしか言い表しようがない。少しの時間しか見えなかったけれど、しかし、グラウンドの形が変わったところは確認していないので、何だか、地面が海になったような感じだったのかもしれないし、もしかしたら、見逃していただけで、しっかり地形が変わっていたかもしれない。よく分からないけれど、そして分かるような気もしないのだけれど、とにかく、人魚はグラウンドを泳いでいたのだ。
「なに、アレ! なんなの!」
細道を走る間も、ハナちゃんは、かなり動揺しているようで、目を白黒させながら声を荒らげている。ミナミもそうしたい気持ちは山々だったけれど、二人で喚いていても仕様がないので、黙った。何もわからないけれど、アレは人魚だ。それだけは、間違いようもない。
どうするのが正しいのかわからない、混沌とした現実の中で、ホ、と歌う音を聞いた。
そして、それは今も続いているのである。よっぽど大きな声で歌っているのか、学校からかなり離れたはずなのに、くっきり耳に届くのだ。
――どうして、こんなに大きく聞こえるんだろう。
ミナミは、何だか嫌な予感がした。
夢の中で、逃げても、逃げても、逃げられなかったように、何となく、今この瞬間も『逃げられない』という呪縛に掛かっている、そんな予感がしたのだ。
「ミナミ!」
また、後ろへ、ぐっと強く手を引かれる。
今度は何だと前に目を凝らしたのと同時、滝のようなマーブル色が、目の前で大きく波打って。
「人魚!」
ハナちゃんが叫んだ。
ミナミは思わず尻もちをついた。
追いつかれたのである。
悟ってから、あんなに走ったのに、どうして、と、泣きたい気持ちになってしまう。
巨大な顔が天高く上がって、身体を大きくうねらせて、髪をキラキラ光らせながら、水族館のイルカショーのように、街の中を大きくジャンプする人魚。後ろに居たはずなのに、気付かれる前に校門を出たはずなのに、どうして目の前に現れるのか、意味がわからない。
目が合った。合ってしまって、また、人魚の唇が動いたのであった。
『ミツケタ』と。
巨大な人魚は、自分を探していたのだ。ミナミは震え上がった。ハナちゃんは口をぱくぱくさせながらも、それでも両足を踏ん張って立っていたけれど、余程恐ろしいのは同じで、そこから一歩も動くことができないのであった。
そんな時。
ふと、ミナミを見つけて嬉しそうにしていた人魚が、大きく身体を仰け反らせた。その瞬間に、歌声がやんで、代わりに「ぎゃあ!」という奇怪な声が大音量で空にこだまする。ハッとなって、ミナミは、ぐっと目を凝らして人魚を見た。何が起きたのか、よくよく観察をした。すると、後ろに倒れ込まんとする人魚の少し上の辺りに、目に馴染みのある物体が飛んでいるのが見えたのであった。
黒光りする、所々が金属の色で、馬のような形をした、普通は空を飛ばない『乗り物』だった。
即ち、バイク。
一般車道などで良く見かける、普通のバイク。
どうして、バイクが空を飛んでいるのだろう。ものすごく不思議でならなかったが、しかし、そのバイクが飛んで、人魚の顔面にぶち当たったのだということは、おぼろげながら理解した。すかさずハナちゃんが、これは好機とばかりに座り込んだミナミを叱責し、立たせる。それと殆ど同時に、上の方から「おーい!」と呼び声が聞こえて、双子は空を振り仰いだ。
声の主は、すぐに見つかった。
「こっち、こっちおいで」
エプロンを付けていない秋月さんが、坂の上で、見慣れた車を背後に、大きく手を振っていた。車の中には、今朝、慌てて家を出て行ったはずの片桐さんが、運転席の窓から同じように手を振っている。
双子は大急ぎで二人の元へ駆け寄って、取り敢えず促されるままに、ミナミは後部座席へ、ハナちゃんは助手席へと乗り込んだ。
「秋月さん、お店は?」
ミナミが質問したのを聞いて、がくりと項垂れるハナちゃん。今、聞くべきことはそれではないだろうと思いながらも、しかし、ミナミがいつもと変わらないマイペースであることに、少しだけ安堵をして、口を閉ざす。
秋月さんは、んー、と返答に困っていたが、暫くしてにっこりと微笑み、
「人魚が出たから、閉店」
と答えた。なんだそれは、と双子は心の中で突っ込んだ。
「因みに私は交通規制に引っ掛かって、出勤を諦めて帰ってきたのよ」
片桐さんが補足をする。
出勤は諦めちゃダメだろう、とまたも双子は心の中で突っ込んだ。
「さっきのバイクって、秋月さんの?」
続けてハナちゃんが問い掛けると、秋月さんは照れ臭そうに指で頬をかいて、「そうなんだ」と肯定した。
「二人が困っているのが見えたから」
「だからって、乗ったまんまビルを駆け上がって、エンジンかけたまんま機体をブン投げるなんて、思わなかったけどね」
また、片桐さんが補足をする。言われた内容を想像して、気ままで温厚な秋月さんからは考えられない荒業に、双子は沈黙した。秋月さんは控えめに照れているようだけれど、双子は、それが照れるような内容ではないことを、良く理解しているのである。引き攣った顔で、バイクって幾らするんだっけと値段を算出し始めたハナちゃんに、本人が「免許が無くなったわけじゃないから」と前代未聞のフォローを入れた。しかし、バイクをあんな用途に使う人は漏れなく免停なのでは、というツッコミが即座に浮かび上がって、フォローがその役割を果たすことはなかった。
「さあ、双子ちゃんたち! シートベルト、しっかり締めなよ!」
意気揚々と片桐さんが指示を出す。ハナちゃんはテキパキとシートベルトを締めて、ミナミは思うように手を動かせず、もたついていたので、秋月さんが代わりに締めた。それと殆ど同時に、ブォン、と聞いたことのないほど大きなエンジン音がして、ハテと首を傾げる双子の仕草がぴたり揃った。車ってこんなに激しく鳴るものだったっけ、と、疑問に思っている間に、片桐さんがブレーキに乗せていた足をパッと離す。
ガクン!
一瞬の衝撃があって、重力がシートの背もたれに吸収された。開きっぱなしの窓の外から、『ギャギャギャ』という有り得ないタイヤの音が聞こえてしまって、双子は顔を青くさせた。
ものすごく、速い。
景色がビュンビュン飛んでいく。
身体の重心が、四方八方へと持って行かれる。
ハナちゃんは渾身の力を込めてシートにへばりつき、ミナミは秋月さんに支えられながら、泡を吹きそうになるのを必死で堪えた。
そういえば、と、ハナちゃんは、車に乗り込むとき、疑問に感じたことをふっと思い出す。何故、座るシートが、指定されたのか、という点。普通なら、あの局面であれば、慌てていたのだし、双子が揃って後部座席に座るのが自然であったはずだ。何故、敢えて自分が助手席で、ミナミが秋月さんと共に後部座席に座るように促されたのか、少し引っ掛かっていたのだけれど、つまり理由はこれだったのである。ハナちゃんの場合は、自分の力でこの恐ろしい運転への対処ができるが、運動神経が壊滅的なミナミには、絶対に無理な話であったから、秋月さんが隣で支える必要があったのである。
「毎朝、遅刻しないように急いでいたら、飛ばすの楽しくなってきちゃったのよ」
そう語る片桐さんは、実は、秋月さんとはドライブ仲間なのだそう。初めて知ったし、そんな悪魔のような組み合わせなど、知りたくはなかった。バイクを投げ飛ばす秋月さんもだけれど、こんな荒い運転をする片桐さんも絶対に免停だ、と、ハナちゃんは、心の中で盛大にツッコミを入れた。
「ん、あれ」
秋月さんが、のほほんと声を上げて、ミナミを支えたままに外を指差した。
「また、追いかけて来たみたいだ」
焦るミナミの傍ら、眉一つ動かさずに告げる秋月さんを見て、どうしてこの人は、いつ如何なる時もこの調子なのか、と不思議に思う。見ると、人魚が、先のバイクの攻撃など無かったかのように微笑んでいて、ざぶり、ざぶり、街の中を飛んだり潜ったりしながら後ろをついてきている。車の速さが規格外で、追い付かれるような心配はなさそうだけれど、あの巨体の動きに対してこの軽自動車ひとつで応じているという事実が、逆に危険行為であることに、運転手とそのドライブ仲間は、まるで気が付いていない様子である。あまつさえ片桐さんは、ここにきて、「よしきた!」なんて言って更にアクセルを踏み込み、運転席以外の全部の窓を閉じて、メーターが振り切れるほどにまでスピードを上げていく。ハナちゃんは、青い顔を更に青くさせた。目の前に、車が通れるような道が、ひとつも見当たらなかったからである。あるのは、建物と建物の間の、極めて細い道のみ。さっき、双子が抜けた道よりは些か広いものの、如何に軽自動車といえど、通れるはずがないことは自明。
「奥歯、しっかり噛んどいて!」
何をするの、と問い質す前に、ぐらり、重力が大きく右に傾いた。
車の左側が、高く浮き上がって、右のサイドウォールだけを支えに走り続けていた。助手席のハナちゃんは突然の浮遊感に叫び、ミナミはついに気を失い、秋月さんはのほほんとしていた。誰も奥歯を噛み締めてはいない。
片輪走行をして、建物の間を縫って抜ける青い軽自動車。断じて、スポーツカーではないし、ハリウッド映画のパトカーでもない。車高が異様に低いだけの、普通の軽自動車のはずである。
これがやりたくて車体に随分お金を掛けたのだ、と誇らしげに語る片桐さんの言葉に、最早何を思う気力もなく、ハナちゃんは、すっかり、心までも黙り込んだ。
秋月さんは後ろを振り返って、建物の隙間の向こうに見える巨大な影をよく観察していた。
人魚は、一度潜って、建物を抜けようとしたようだけれど、そこから動けなくなったようで、途方に暮れた風に、右へ左へと尾を動かしている。
「撒いたみたいだ」
その言葉に、片桐さんは「ふう」と安堵の息を吐いた。しかし、ミナミとハナちゃんは随分とぐったりしてしまって、その後家に帰り着くまで、一言も言葉を発することはなかった。
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