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双子の自宅の前まで来て、ようやく目を覚ましたミナミは、気を失っていた所為か、それほど吐き気と目眩が残ることはなく、すっかり平常の三半規管の働きを取り戻していた。が、ずっと起きたまま地獄の運転を体感し続けていたハナちゃんの方はそうもいかず、未だぐるぐると目が回り続けているようで、ミナミは思わず後部座席を飛び出し、助手席に回り込んで妹の手を引く。
「中学生には、ちょっと刺激が強かったわね」
「そうかもしれませんね」
大人たちが話しているのを聞いて、ハナちゃんが抗議の声を上げようとしたのを、宥めた。多分、今、喋ったら、ハナちゃんはお腹の中のものを余すことなく外へ出してしまいそうな感じであった。夕飯に用意するはずのオムライスが食べられるかどうか、心配になるほどである。
車を駐車場まで運んだ片桐さんは、戻ってくるなり、ミナミの肩を掴んで、まっすぐ目を見て言った。
「双子ちゃんたち。今日は私、ずっと家に居るから、何かあったら呼ぶんだよ」
力強い言葉である。とても、力強い言葉なのに、けれど、どうしてか、それがミナミには、その胸を必要以上に張っているように見えたのであった。そうか、と理解する。車の中で、ミナミは彼女の真後ろの席に居たので、ずっと運転席の様子は見えなかったのだけれど、片桐さんはあのめちゃくちゃな運転の最中に、もしかしたらとても怖いのを我慢していたのかもしれない、と思った。または、怖いのを散らすために、わざと荒い運転をして、前へ進むことに集中していたのかもしれない、とも思った。肩に触れる手が僅かに震えていたから、きっと、この女性は、恐れる気持ちを振り切って自分達を助けてくれたのである。ミナミが深く頭を下げてお礼を言うと、彼女はカラカラと笑い飛ばして、それから何を言うでもなく自分の部屋へと入っていった。片桐さんがしっかり扉を閉じるのを見届けてから、ミナミは、口を開いた。
「……人魚、ここまで追ってこないかな」
恐怖と戦いながら自分を守ってくれた片桐さんの前では、とても、言えなかった。
だから、独り言のつもりだった。
「人魚は陸には上がれないから、きっと大丈夫じゃないかな」
しかし、ぐったりしているハナちゃんの他に、もう一人が場に残っていたことをすっかり失念していたのである。秋月さんは、笑顔で、まるで何も起きなかったかのような、いつも通りの声音で、のほほんと、そう言った。
「そうかな」
甘えてはいけないと思うのに、どうしてか、彼の前ではいつも口を滑らせてしまう。秋月さんのマイペースは、周囲の人間をも巻き込んでしまうから、会話というものが、常に彼の時間、彼のテリトリーで行われるのだ。だから、言わなくていいことまで、うっかり漏らしてしまう。秋月さんが、言葉ではないところで、「言ってもいいよ」と許してくれているような、そんな勘違いをしてしまう。
「さっき、車が傾いた辺りで、ミナミ、気を失っただろう?」
「う、うん」
「人魚は、他の建物は全てすり抜けて、自由に泳いでいたんだ。でも、僕たちが抜けた建物の間は抜けずに、困った顔をしていた」
「そうなの?」
「うん。あの辺りは、この街の坂がちょっと急になる。人魚は、多分、そこから上には登れないんだと思うよ」
あのラインから上が、人魚にとっての『陸』。
それより下は、『海』。
そういう見解だ、と秋月さんは語った。ミナミは、ほへー、と感心する。普段、のほほんとしていて、難しいことなんて何も考えていなさそうなのに、今日は、バイクを投げ飛ばしたり、人魚の動きを良く観察していたり、何だか少し格好良い。勿論、その推論に絶対的な信頼性なんて無いのだけれど、しかし、秋月さんののほほんとした笑顔を見ていると、何だか大丈夫そうだという気になるから、不思議だ。
「私も、秋月さんに賛成。きっと大丈夫だよ、ミナミ」
いつもは根拠の無い話には食って掛かりそうな現実主義のハナちゃんも、何故だか自信ありげに大丈夫だと言っている。そのまま、「お腹空いてきた」と言って、さっきまでの乗り物酔いは何だったのかと疑うほどに、ケロリとして、家へと戻っていく。
ヘンなの、と笑うと、秋月さんがぽんぽんとミナミの頭を撫でて、言った。
「ミナミも、部屋にお戻り」
「わかった。秋月さん、ありがとう」
「ううん。今日の弁当、唐揚げを沢山入れてくれて、嬉しかったんだ」
秋月さんらしいなあ、と納得して、ミナミはパタパタと足音を立てながら、家へと戻って行った。
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