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Episode 02
地上にどれだけ奇天烈ことが起ころうとも、空というものは、どんなときでも好きな模様に形を変えて、いつだって、人間の心理などというものは置き去りだ。カンカン照りの快晴であるにも関わらず、街には大雨の警報なんてものが発令されて、ミナミは、何だかおかしな気分になってしまう。だけれど、何度窓の外を覗いても、突き抜けるような深い青の夏空は、遠くの方に大きな入道雲をぷっかり浮かべて、澄まし顔だ。
「なんだか、まだ夢心地」
ハナちゃんが、居間でゴロゴロと転がりながら、ぽつり、零した。
「突然でっかい人魚が現れて、秋月さんのバイクが飛んで、片桐さんの車が傾いた」
なんというタイトルのアクション映画だろうか。
最早この際、理屈の通らない人魚の存在は一旦置いて、何も考えないことにしたとしても、後者ふたりが奇想天外にも程がある。彼らは巨大人魚などという不可解な存在ではなく、歴とした人間であり、紛うことなく現実で再現が可能な技術の上で、あのトンデモ行動をやり遂げた。その上、多分、もう一度やれと言われたら、もう一度やるだろう。ミナミは両眼を閉じて、考えることをやめた。
今日は、平日で、テスト前というわけでもなく、振替休日というわけでもないのだけれど、例の『大雨警報』が出ているため、休校になった旨の連絡網が回ってきたのである。ミナミとハナちゃんは、元より外に出る気になれず、今日は学校を休もうか、なんて冗談交じりに話していたところであったので、大変喜んだ。天気が良いのに、外に行けないことは残念だけれど、折角だからピクニック気分で昼食を豪勢にしようとどちらからともなく言い出して、アレも、コレも、と、四人分くらいの大きな弁当箱にオカズを詰め込んでいる真っ只中である。
「何だったんだろうね、あのでっかい人魚」
卵焼きをつまみ食いしながら、ハナちゃんが呟いた。
「夢で見たのと同じ人魚だった」
返すと、ハナちゃんは仰天して、ごくり、口の中のものを飲み下す。良く噛んでもいなかったようで、卵焼きなのに、詰まってしまいそうになっていた。慌てて水を汲んで渡すと、ハナちゃんは一瞬でそれを飲み干して、深呼吸をする。
「夢で?あの人魚を?」
とてもではないが信じられない、という目。けれど、ミナミも嘘を言っているわけではないので、こくりと頷いた。
「じゃあ、つまり、アレって町長さんの描いた絵の人魚?」
また頷く。ミナミの見た夢が、多分、町長さんの描いた絵を元にしているのだから、あの人魚はアトリエの絵画に相違ないはずである。理屈なんてわからないし、こんなに不思議なことを、どうしてか、何故なのか、なんて考えるだけ時間の無駄のような気がするのだけれど、妙にそわそわとして、落ち着かない気持ちになった。
確かめたい、という欲求。
もし、あれが絵画の人魚なら、今、町長さんのアトリエはどうなっているのだろう。人魚の絵は、抜け殻のようになって、そこだけ白くなっていたりしないだろうか。そんなヘンテコなことが、現実に起きていないだろうか。想像して、少し恐ろしくなったけれど、既に大きな人魚がグラウンドや街の中を泳いでいるのだから、何が起きたって不思議ではないはずである。
「ねえ、ミナミ」
やはり双子である。一目見て、ハナちゃんも同じことを考えているのだと悟ったミナミは、完成したお弁当を風呂敷に包み込んで、玄関口まで運び出しておいた。
警報が出ているから、本当はそんなことをしてはいけないのだ。
だけれど、昨日、何故かミナミが人魚に追い掛けられた。少しでも情報を集めて、対抗策を取れるのならそうしたいし、その人魚は高台には上がってこないのだから、坂のテッペンにある町長さんのアトリエになんて現れっこない。
ハナちゃんは、オレンジ色のノースリーブを着て、下にショートパンツを履いて、可愛らしい麦わら帽子を背中に引っ掛けて、ラメ入りの日焼け止めクリームをぺたぺたと塗り始めた。
ミナミは、ハナちゃんがタンスから引っ張り出した水色のワンピースと、お揃いの麦わら帽子を背中に引っ掛けて、同じ日焼け止めクリームを、ハナちゃんの手でぺたぺたと塗られていく。擽ったくて、「いらない」と言ったのだけれど、今日は紫外線が強いからダメだと押し切られて、手の届かないところまでしっかりとカバーされてしまった。
身支度を整えて、ミナミが弁当箱を片手に、ハナちゃんが先陣を切るような面持ちで玄関の扉に手を掛けたところで、『ピンポーン』と呼び鈴が聞こえて、双子は慌てた。こんなタイミングで尋ねてくる誰かが居るなんて、考えもしなかったのである。尋ね人の方も、警報が出ているのにも関わらず、まさか双子が出掛けようとしていたなどとは、露ほども思うまい。相手が大人であれば、この余所行きの装いを見られてしまったら、どこかへ行くのかと詰問されて、咎められるかもしれない。ミナミは咄嗟に弁当箱を隠し、ハナちゃんはすぐに落ち着きを取り戻して、言い訳を考えながら、扉をガチャリと開いた。
「はい、どちら様ですか?」
客人は、このマンションを取り仕切る大家さんであった。
「こんにちは、美花ちゃん。回覧板を持ってきたのだけれど……あら、素敵なお洋服ね」
お弁当を隠して戻ってきたミナミは、竦んでしまった。大家さんが、早速双子の格好を指摘して、目を鋭くさせたからであった。
しかし、ハナちゃんは華やかな笑顔を作り、まるで萎縮することなく言い放ったのであった。
「やることがなかったので、ミナミと二人で着せ替えごっこをしていたんです」
こういうとき、ハナちゃんの強かさがとても頼もしい。悪いことをして、見つかっても、ハナちゃんは要領が良いから、いつも上手に言い訳を作って、お説教を逃れるのだ。それに、ハナちゃんはとても可愛いから、着せ替えごっこだなんて、中学生らしくない言葉を使っても、説得力こそあれど、違和感なんてまるでない。大家さんはころりと騙されて、そうなのぉ、と破顔した。きっと、うら若き女子二人が、家の中でキャッキャと遊ぶ様を想像して、和んでいるのだ。
「邪魔して悪かったわねえ」
「とんでもないです。届けてくださって、ありがとうございます」
「でも、こんな天気の良い日に外に出られないなんて、退屈ね。おかしな事件さえなければ、良いピクニック日和だったでしょうに」
実は、こっそり町長さんのアトリエに遊びに行こうとしていたので、キリキリと心が苦しくなった。
「大きな人魚が出た、なんて噂だけれど。私はそんなの信じていないのだけれどね」
大家さんはお喋り好きなので、少しの用事であっても、必ず話の内容が二転三転として、十分以上は話し込んでしまうのである。今すぐにでも外に出るつもりでいた二人は、出鼻をくじかれて、少し落胆した。けれど、顔には出さないように、一生懸命努力した。
「大きな人魚なんかより、ここ最近の行方不明者の方が心配ねえ。町長さんも、昨日の夕方から姿を見ないし……」
「えっ、町長さん?」
「行方不明者?」
ミナミとハナちゃんは、目を丸くして、顔を見合わせた。人魚や、バイクや、片輪走行で頭がいっぱいで、寝耳に水だったのである。大家さんは、良く井戸端会議に参加しているから、結構情報通な人なのだけれど、その情報を双子が知らなかったことについて、驚いた顔をしていたので、意外と町中に広く知れ渡っているらしいことを察する。大家さんが、今しがた持ってきたばかりの回覧板を指差して、コレにも記事が載っているから、見た方が良いわ、と言って去っていった。双子は、一度外出の予定を中断して、居間に戻って回覧板を捲りながらその情報を探した。
「あった、これだ」
珍しく、ハナちゃんより先にミナミが見つけた。
記事には、行方不明者の名前と、最後の目撃情報、『捜してください』の文字。名前の欄を数えると、既に五人もの人が居なくなっていて、その中にはちゃんと町長さんの名前も載っていたので、ミナミは固唾を飲んだ。
町長さんは、昨日の朝、ミナミたちと会話をしていたのである。いつものように、ホケホケと笑って、秋月さんと花の話をして、ミナミには人魚の夢の話をしてくれた。昨日の朝まで、普通に、何も変わった様子もなく接していたのに、突然「行方不明」だなんて言われても実感がない。胸のところに、ぽっかりと穴が空いた感覚がして、そこ目掛けて冷たい風が吹き込んだものだから、突然寒さを感じたミナミは、両肩を抱き込んだ。
町長さんが、消えてしまったなんて。
信じられない。だって、今からまさに、町長さんのアトリエに向かおうとしていたのに。人魚の絵を見せてもらって、アレが何なのか、確かめようとしていたところだったのに。
途端に尻込みしてしまって、そもそも家主が居ないのであれば、中止だろう、と考えて、玄関に隠したままの弁当を回収しに立ち上がる。折角作ったけれど、元々ピクニックの気分だけのつもりだったのだから、本来の用途の通りに家で食べれば良いのだと納得して、居間に戻ろうとした。
「アトリエ、行こう。ミナミ」
ハナちゃんがぬっと立ちはだかって、拳を握って宣言した。
「人魚が出たり、人が消えたり、信じられないことばっかり! 一体何が起きているのか、確かめないと気が済まないわ!」
「でも、町長さん、居ないのに」
「居なくても、どうにかなるわよ。忍び込めるところなんて、探せば沢山ありそうじゃない」
なんと堂々たる不法侵入宣言。
町長さんのアトリエは、坂の上の少し住宅地から離れたところにある、古い建物である。確かに、ハナちゃんの言う通り、探せば入口なんて幾らでも見つかりそうだけれど、しかし、そういう問題ではないのだ。ミナミは、まだこんな年齢のうちに警察の厄介になるなんて、絶対に嫌なのであった。しかし、ハナちゃんはお気楽に構えて、大丈夫、大丈夫と繰り返している。どうしても行くと言って聞かないので、ミナミは半ば押し出されるようにして、弁当を持ったまま、無理矢理に家の外に出されてしまった。
「先に、片桐さんに回覧板だけ回しておこう」
せめてもの抵抗、この装いを片桐さんに見せれば、大人な彼女なら止めてくれるかもしれない。何か言われるよりも先にインターホンを鳴らす。が、しかし、待てども待てども、彼女が出てくる気配は無かった。
「留守かな?」
「仕事かも」
残念。
警報が出ているのに、仕事に行かなくてはならないなんて、大人というのは本当に大変な生き物だ。諦めて、ポストから投函する形で回すことにして、双子は抜き足差し足をしつつアトリエを目指した。
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