7人が本棚に入れています
本棚に追加
家の木戸の前に立つ。右の手は袖に隠れ、左手で羽織った藍色の外套を翻し、背を向けてから小さく口にする。
「それじゃあ」
その一言で今日という日の、残りの時間が恐ろしく憂鬱になるのを貴方はご存知なのだろうか。そんな私の想いに気づくこともなく、貴方は軽く首を後ろに曲げて片目でこちらを窺い見る。その仕草の静けさと言ったら凪のように清楚でひっそりとしていて、これ以上の悲哀に満ちた空間は存在しないと思える程に、粛々とした空気が立ち込める。
「お気をつけて」
そう私が声を漏らすと、その言葉を待ち望んでいたかのように貴方は僅かに頭を揺らして頷く。ある種の儀式のように、それが終わると外套にそのほっそりとした身を包んで、彼は雪道を歩き出す。その背中を目で追い続け、姿が見えなくなると白い地面に残る下駄の跡に視線を向ける。いつの間にか肩に積もった雪を払い落として、そうしてようやく私は中に入る。
先程と何ら変わらない部屋。消えかかったストーブも、煙草の焦げ跡がついた畳もそこに佇んでいるというのに。ここを埋めていた物質の、性質が一変したのではないかと疑うほどに、空気は私の両肩に重く圧し掛かる。
「おーい、文子、今帰ったぞ!」
その声に丸めていた背を伸ばす。今来た土間を通って入口に向かえば、そこには夫の武久が立っていた。
「今日はまた早いお帰りで……」
「こうも吹雪いちゃ、傷が痛んで仕事もままならん」
「そうですか。まあ、ゆっくりなすって下さい」
夫が羽織っていた外套を手にし、長靴を脱いで居間に上がる彼の背を追い掛ける。
「何だ、また欣二の野郎来てたのか」
その一声に即座に反応し、私は大きな身体の向こう側を覗こうと必死に背伸びをする。障子と彼の隙間に自分の身を捻らせて、首を伸ばしたところで彼は振り返った。
「こんなもん持ってるのはあいつしかいない。ゲタトゾウリデ」
金色と茶色の箱をこちらに見せる。
「それを言うならゲルベゾルテですよ」
「ふん、デベソだかナキベソだか知らねぇが……」
最初のコメントを投稿しよう!