沼と助手席

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 運転も上手く、カーナビのおかげか道に迷うこともなく無事にテレビ局に到着し、メイク室で、自分では決してできないレベルの化粧の上塗りをされ、髪も少しふんわりと作られて臨んだ初出演は、自己判断では可もなし不可もなしといったところ。前日に電話で打ち合わせてあった内容を男性司会者がうまくまとめて訊いてくれたのがありがたかった。  最後に、期待が膨れあがっているかもしれないけれど、いつから治験が始まるかすらまだ正式には決定していないので実用化はずっと先のことです、と世間に釘を刺すことだけは忘れずに、無難に終えた。  啓子が顔を作られているあいだに、西澤のほうは主立った人たちに名刺を配り終えていたらしく、生放送の本番中は啓子のマネージャー然とした顔つきでスタジオの隅に立っていた。無精ヒゲとツイードのジャケットが、やけにテレビ局の雰囲気に溶け込んでいて、西澤が視界の端に入るたびに小さな笑みがこぼれた。 「研究所に戻りますか?」  番組が終わり、ふたり並んで駐車場に戻り、西澤はまた啓子のために後部座席のドアを開けながら訊いた。 「いえ、今日はもう直帰していいって言われてますので。実験もキリのいいところで出てきてますし」 「あ、よかった。僕も直帰です」と、腕時計を見た。  時刻は午後7時になろうとしていた。「あの、都合悪くなかったら、メシ食って帰りませんか」 「いいですね。運転なさるから軽く一杯というわけにはいかないでしょうけど」と即答したのは、啓子にしてはとても珍しい。
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