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WINGED FLIERアジトからベスカ湾へのアクセスは半日の列車と数十分の徒歩である。
ベスカ湾岸戦争。翅虫(ハムシ)がこの世に湧き出た最初の事例であり、それに倣って、ある地域ではベスカ湾を『はじまりの神罰』と呼ぶらしい……そんな噂話を列車内で耳にして、レンは、はてと首を傾げた。
神罰、という単語。
そういえば其処彼処で聞いたような、聞いていないような、余程周りが見えていなかった状況下で、微かに記憶にインプットされていたような気がする。
確か、『神罰現象』。
装備を揃えに行った武具屋、寝床にしていた空き家のラジオ、風に乗り飛んできた新聞等から、単語そのものは初耳ではないものの、実のところそれが何なのかを良く知る機会は無く。チラリと隣を盗み見ると、そこには不機嫌な顔のユノーと、彼女に向かって何かを頻りに話しているサブが、おそらくは各々にまるで噛み合わない感情を盛大にすれ違わせている最中であった。質問ができる状況かといえばそうだが、しかしながらサブ、ここまで完膚無きまでに無視をされていて、良くもまあメゲないものだ。もしレンが同じ立場なら、意中の相手がこの態度では再起不能待った無しである。
「なあ」
声を掛けると、いち早くユノーが反応を示した。早く言えと目線で訴えかけてくる辺り、ガン無視を決め込みながらも、やはり鬱陶しく思っていたのだろうか。
意図を汲んだレンは至ってシンプルに「神罰現象とは何か」とド直球に問いを投げ掛ける。
すると、サブが怪訝な顔をしたのが見て取れた。えっべスカの生き残りなのに知らないんですか、という顔だ。
確かにレンはべスカの生き残りである。この世に初めて翅虫が現れた忌むべき戦場から、五体満足で帰還した、稀なる存在である。何故ならば、レン以外の生き残りは今や誰も人間として息をしてはいないからである。
全てが屍になっていた。
少なかった生存者も、翅虫に食われた。が、生憎レンは、その生き残りであるというだけで、全体を俯瞰した詳細など知る由もない。その場で見た現象以上の情報を何も持たないので、べスカの生き残りだろうと何だろうと、知らないものは知らないのである。なので、サブの鬱陶しい表情は見なかったことにして、ユノーの様子を伺うと、彼女は相変わらず不機嫌そうな面をしたまま、しかし特に何を言及するでもなくポツリと回答を寄越した。
「翅虫のこと。あれが世界に現れた災厄を、そう呼ぶってラジオが言ってた」
「へえ……サンキュ」
余計な情報が無くわかりやすい。
正直言って、第一印象がアレであったが故にユノーにあまり良い感情は持たないが、会話の必要量が最低限で構わないというのは、サッパリしていて良いことだ。そう思った矢先。
ふと、潮風が強く香った。
「……ぁ……」
つい、声が漏れる。
そして、自らの発した声の弱々しさに驚いた。
今のはなんだ。まるで悲鳴のようではないか、と。
「……」
――ジャリ。
耳元でその音を聞いた気がして、うっ、と身体が拒否反応を起こす。ついでにじわりと吐き気を催した。さっきまでそんな前触れはひとつもなかったというのに、あの時に聞こえた、香った、触れたものの感覚が、生々しく蘇った。
突然だ。
本当に、さっきまで、何も違和感を覚えることはなかった。
自分の中に、こんな弱みが形成されていることに対する自覚なんて、ひとつも。
ここに白骨の残骸など有りはせず、まだ波打ち際さえ見えていないこの段階で、何かが腹の奥で疼いて、内臓を痛めつけるかの如くに暴れ回る。
レンは、青ざめた。
海は。
海は、駄目だ。
頭痛がした。
奴らが現れる。群れを為して、人や、或いは人だったものに、飛びかかり、骨まで貪り喰い尽くして、砂利のような白いそれを砂浜の上に散らかして――そうしてこちらを見るのに、目が合っても、襲い掛かろうとしなかったことに、逆に恐怖を覚えた。理由のわからない冒涜への恐怖に、自分ひとりだけが対象外とされていることの恐怖が重ねられた。
どうして。
口の中で、鉄の味がする。
あのとき、唐突に沸き立ち、人類を脅かす存在として世界中へテリトリーを拡げた翅虫は。
何体も、何体もいたのに、自分だけを通り過ぎて、他を喰らうためフラフラと彷徨っていたのだ。
「レン」
目眩が。
ふらりと前へ傾いた身体を、たたらを踏むようにきて両足で支える。ユノーが正面で仁王立ちをして、こちらの様子を窺っているようだった。
「レン」
もう一度、名前を呼ばれる。
急かすような声音に、レンは舌打ちをした。
「……んだよ。足でまといなら帰れってか」
「ちがう。ガイドが居なきゃ、私達はこの地を進めない」
「わかってるよ。ちゃんとやるから心配無用だ、黙ってろ」
「ちがう。歩けないのなら手を貸す」
ふと、身軽になった感覚がした。
「立っていられないのなら担ぎ上げる。必要な時は、言って」
ユノーの手を見る。
こちらへ差し出されているわけでもなく、また、身体を支えられているわけでもない。サブも同じであった。特に何かをされたわけでもないが、しかし、何故か、身体が軽くなったような不思議な感覚が確かにあって、自らの掌に視線を落とし、見つめる。ユノーは既に止めていた足をまた前へ踏み出して、歩き始めていた。
おかしな感覚の正体に、思い当たる節がある。それを理解したと同時、不本意だと、思った。
軽くなったのは心である。
こんなに安っぽい言葉で。
「本心に見えたでしょう」
サブが得意げに放った言葉に、頷く。
本心に見えた。だが、あまりにも安っぽい。
「本心なんですよ。あの人は、細かいことを考えることが苦手なので」
つまり、馬鹿ということである。となるとそのフォローに回るのがサブの役目、と言ったところであろうが、しかしながらこいつ、遠回しに自分の尊敬してやまない上司の悪口を言った。さらりと、事も無げに。レンは嘆息して、ユノーの後を追う。
本心で、ああいう小っ恥ずかしいことを、敵相手に言える。この年で。
無論、レンとて戦場で味方が相手であれば当然のように手を貸すし、担ぎ上げるだろう。仲間が弱気になっているのなら、励ましの言葉なら幾らでも掛けたはずである。怪我をしていたのならその分、全力で助けになろうと奮戦する。最前線に立つことよりも、そういうサポートに徹することこそ、レンにとっての戦いに相違ない。戦争に意味は見い出せないが、しかし、それで望まない戦に駆り出される人間には生かす『理由』がある。何においても守るべき『理由』がある。
しかし、ユノーにとっての自分はどうだ。
協力を約束したとして、だから、なんだと言うのか。レン自身がそもそも彼らを信用していない。彼女を信用していない。ジェイの手先など信ずるに値しない。寧ろ、端から切り捨てて然るべき相手だとさえ思っている。
だが、今のユノーの言葉は。
「……仲間、だな。あれは」
仲間に向けるべき言葉である。
レンは仲間ではない。
裏があるはずだ。
疑っても、今はその尻尾を掴むことはできないが、しかし、そっちがその気であるのなら、レンとて応じないわけには行かぬのである。
ユノーの言葉に裏表が無いにしても、そのユノーと隊列を組ませる決定を下したのはジェイである。好感が持てる相手と密に接触させて、懐に入れてレンを懐柔するつもりであるのなら、レンが取るべき行動は『懐柔されたフリをする』『寝首を掻く』の二つ。幸いにも、または不幸なことに、レンはジェイからその権利を授かるという屈辱を味わっている真っ只中。いっそのこと、与えられたものを全て使ってでも当初の目的を果たす、という方が、自分の死に様も少しはマシになるのではないかとさえ思う。ただ襲撃に失敗して、死ぬよりは、まだ、些か、目的を果たした方が。
歩いているうちに、浜辺が見えた。
ベスカ湾は、思いの外綺麗なままで、白の残骸も、最早波に攫われて一景に溶け込んでいる。とても、あの日翅虫の襲撃が起きた地点とは思えない静けさであった。
「ガイド、早く」
急かされて、早歩きをする。
一歩、また一歩と踏み締める度、頭の端で惨状が蘇った。しかし、ただ前の一点だけを追うように歩くユノーの、その足跡の上を歩いていると、それだけで不思議と、嘔気も、目眩も、感じることはなく。ついには横に並び、ガイドの役目を果たす頃になっても、足元は揺らぐことなく目的地を目指している。
なるほど『隊長』だ、と納得してしまう。
壁を殴るほどレンを引き入れることに反対していたというのに、いざ同行してみればすっかり懐の内、ついてこいとばかりに堂々たる姿で前を行く。細かいことを考えるのが苦手だと言っていたが、おそらくは芯からやるべきことをわかっているタイプの人間なのだろう。苦手分野はサブに任せて、自分は隊長として、レンの牽引を最優先にこなしている。
奇妙な女だ。戦術といい、子供のような挙動でありながら、今のこの出で立ちといい、やはりどう考えても自分と同年とは思えない。どころか、自分と同じ人間という生き物であることさえも疑ってしまう。
今まで、一体、どんな生き方をすればこんな人間が出来上がってしまうのか。想像もできない。
ふと視線を感じてサブを窺うと、「すごいでしょう」とばかりにドヤ顔をしているのが目に入った。
何でお前が得意げなんだ、と思った。
思いつつ、前進をやめない少女の首根っこを掴む。
ぐえ、とユノーが唸った。
「そっちは駄目だ。迂回するぞ」
「……。なんで?」
「地雷だ。それなりに埋まっている」
「! べスカに、そんなのがあるの」
「多くはないけどな」
停戦の協定が有ると言っても、案外と大事な要件を聞かされていないものなのか、と感想を抱く。今この瞬間だけで、土地勘の有無でレンを人材として欲しがったジェイの判断は正しかったのだと察せられた。地形として複雑ではないベスカ湾ではあるが、その実つい最近まで戦争をしていた直後の跡地なのだから、警戒するのは当然のことであった。
「そんな情報はひとつも入りませんでしたが」
案の定、サブは怪訝を全面に出して眉根を寄せていた。
ユノーは足場として機能しない箇所を判別しているのか、難しい顔をして黙り込んでいる。が、言いたいことはサブとそう変わらないのだろう。やはり寄っていく眉がその心境を物語っていた。
「周知はされているんですか? ここが地雷原だと」
「さあ。アンタらが知らなかったんなら、されてないんじゃねーの」
「なるほど」
「……嫌われてんな、反乱軍」
「慣れっこですよ」
元より、最近まで壮絶な喧嘩をしていた政府との協定。与えられた情報も、どこまで信用していいやら知れたものではない。
それに、今しがた目的地にしている基地を我が物顔で拠点にしているマサカド部隊へは、状況の支援ではなく、また喧嘩を売りに行くのである。
そう、また喧嘩を売りに行く。
勿論、政府には知られず内密に、こっそりと動きを制限させる所存である。最悪は相手部隊の解体も視野に入れているからこその、血気盛んなユノーという人選であった。
先遣隊として基地正面までの道筋を確保し、その後は潜入部隊として裏手に周り待機。本隊が到着次第、隠密開始の運びとなっている。
「にしても、いきなり軍ぐるみで協定破りかよ。停戦もクソもねえな」
吐き捨てると、ユノーが心外だとばかりにムッと頬を膨らませた。
「先に破ったのはマサカドの方。私達は人質を奪還するだけ」
「言ったもん勝ちだな。その後、政府がなんて判断を下すか、わかったもんじゃない」
「大丈夫。ジェイのことだし、抜かりない。多分」
「あ、そ」
信頼するのと、丸投げするのとでは訳が違う。
思ったが、突っ込むのも面倒なので、レンは口を噤んだ。
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