翼のある少女 Prologue

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翼のある少女 Prologue

 殺したい男が居るのだ。  火薬の残り香が揺らめき立ち込める、茫洋とした土地の上で、彼は空を仰いだ。  つい、昨日のことであるはずだった。  厳密には日付を跨ぐまでの僅か数時間前。その時間ギリギリまで殺戮が行われていた、この焼け散らかした作戦区域が、たった今から『戦場跡地』という名前に変わることがおかしくて堪らなかった。  生き残りを探すこともした。味方なら重畳、この際いっそのこと敵であろうと構わない、そんな心境で土を鳴らし歩みを続けて、凡そ三十分。声を張り上げても返答がない、そんな虚無感を膨張させる行為が嫌になって、ただ座り込んで上を見ていた。  ここは、こんなにも血腥いのに、未だ煙が晴れず、視界が通らないというのに、空は、憎らしい程に上機嫌の蒼である。  瞬く星の小さな輝きが、瞳の奥に直に注ぎ込まれているような錯覚さえした。  見ていたくない、と思った。  しかし、地上を視界に入れるよりは些かマシであろうと、然して詳しくもない星座を追う。  昔はよく、夜空を見上げた。  今日のように美しいわけでもない、暗雲に覆われた薄汚い夜空を、ただ一人の家族と共に見上げていた。  家族は死んだ。  帰る家はない。  ただ、ここが終の居場所でないことも理解している。  今回もこうして、生き残った。  死地を戦場に置くものだと考えていながら、しかし現状に酷く安堵している姿があることを自嘲気味に笑う。少年には、死ぬまでに成すべきと定めた標があった。殺さねばならぬと憎む相手が居るからこそ、故に、ここでくたばるわけには行かぬのであった。  殺したい男が居るのだ。  味方がどれほど惨い死に方をしようと、何人の敵を切ろうとも、現世に留まり続けねばならないのである。  少年の立つ今の全てを、戦争が齎した。  何も持たない今と、たった一つの憎しみだけを抱えて、いつも戦場跡地で息をしている。  酷く疲れた。  しかし、未だ、胸に抱いた憎悪の炎に消える兆しが見られない。これの揺らめく限り、少年は、例え両足を失おうとも戦場に駆り立てられる。  そう、思っていた。 ――ジャリ、と近くで物音が聞こえた。 「――誰かいるのか!」  思い掛けず、声が弾む。疲れ切った心身では掠れ声にしかならなかったが、そんなことは構わず、それよりも、この死体の群れの中に生きた人間が居る事実の方が余程重要であった。  ろくに探しもしないで諦めていた精神に、ピシャリと水を掛けられたような心地になる。  もし、生きているのなら、それが誰であろうと元の場所へ戻さねばならないと、極めて人道的な使命感に駆られて音のした方を探った。  月と星灯り以外には足元を照らすものがない。その唯一の頼りも、立ち上った黒煙に阻まれて地上では然程役にも立たない。  何処かその辺りに、ライターでも持ち歩いていた死体があれば、多少はマシだ。思い至って速攻で行動に移したところ、丁度良いところにマッチとランタンが転がっているのが目に入った。  ランタンの方は、油が切れていてどうにもならなかったが、今後使うこともあるやもしれぬと懐へ入れる。代わりに飲水を取り出して衣服の一部を破り、濡らし、手近なところから木の枝を数本もぎ取って持ち手の部分に巻き付けた。  火をつける。  ボウと辺りに赤い光が広がり、見通しの良くなった少し先を慎重に歩いていった。 ――ジャリ、ジャリ。  見当を付けた方角の音が、次第に大きくなっていくのを聞きながら、正体を探す。  それにしても、この音の主は一体何をしているのだ。  近付くに連れて、それが砂利が擦れるような類のものであることを認識して、少年は首を傾げる。不規則ながらも途切れないそれは、何か、作業をしているようにも思えるが、こんな場所で、自分の声掛けにも応えずに、没頭するほどの何があるのか、わからない。  不意に、灯の先に影がひとつ揺らめいた。  岩陰の向こう側に、その者は蹲っているようだった。 「おい、無事なのか」  一歩踏み出して、足元に『ジャリ』という音を聞いて立ち止まる。足場を照らすと、何やら白っぽいような、黒っぽいような何かが粉々になって散らばっていた。  先が少し尖っているものもある。  少年は、足に刺さってはいけないと判断して、やや大回りになるように迂回して岩の反対側へと回り込んだ。  しかし、どうにも、何故か。  その散らばったものを視界に入れる度に、ぐらりと何かが傾くような感覚がするのは。  これは一体。  背中のあたりが、どうしようもなく冷える。理由もなく、焦燥し、息の音が気になって仕方がない己の状況を顧みて、少年は立ち止まった。  音が、止んだ。 「……まさか」  もしや、この音の主は、実は負傷していて、声も出せぬような状況にあるのではないか。このジャリジャリという奇妙な音は、周囲の生存者に自身の生存を知らせるために岩を削っている音ではないのか。  そんな可能性に行き当たって、否立ち止まっている場合ではないと、先の畏怖を抱えたままに灯を当てる。 ――そして、何かと目が合った。 「……は?」  そいつは、人を。  死体を食い散らかしていた。 「え。……え、ちょ……何、」 「……」 「う――うわああああああッ!? お前! お前何してんだよ! 何してんだよお前ぇ!」  わからない。  わからない。  何だこれは。何なのだこれは。  戦場に、怪物。  人と人が殺し合う場所に現れた、その倫理の通用しない何か。  悍ましい何か。  果たしてこの場で対面したその存在を前に、悲鳴を上げた少年に向かって、『異形』は地に散らかった煤に汚れた白骨を、ジャリ、と踏みつけて近付いた。
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