帰り道クライシス

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帰り道クライシス

 ごきげんな休日。  昼前に起き出して外食。  選んだ店も、頼んだメニューも大正解。  輝く笑顔で帰路につき、しばらくたった時。 (……ヤバい)  脂汗が頬を伝った。  前方には直線道路。  左右にあるのは倉庫や工場、駐車場ばかりで民家はない。  しばらくいけばコンビニが見えてくるが、7~8分はかかる。  移動手段は徒歩。  今いる位置は、店とコンビニのちょうど中間。 (腹が…ヤバい)  痛いのではない。  調子が悪いのでもない。  むしろ逆、活性化している。  いつもより豪勢なランチを受け止めた胃腸が、ハッスルしているのがわかる。  だがハッスルはもう少し待ってほしかった。 (なぜ俺は店を出る前にすませなかった…? 休みだからって気がゆるんで)  この時、腹が低くうなる。  思い浮かべた言葉に、体が反応しているようだ。 (待て待て、ゆるんでない…ゆるんでないぞ)  あわてて心の中からゆるみという言葉を追い出す。  そして前を見すえた。 (もう考えてもしょうがない。このまま行くしかない!)  できるだけペースを崩さず、速度も落とさず。  前に進むしかない。  何が起きても、足を進めるしかなかった。 (中身をきちっとホールドする。そのためには、出口に力を…)  前進するのは大前提。  それに加え、体のどこにどれだけ力をかけるかも大事。  社会的な破滅を防ぐため、選択と実行には細心の注意を払わなければならない。 (でも力を入れすぎちゃダメなんだ。ふとした時に力が抜けるとたいへ…んっ!?)  全身に衝撃が走る。  右足が、歩道を強く踏みつけてしまった。  いつもなら気にならない程度の衝撃。  しかし今は非常事態。 (うおおっ…!)  中身を出すわけにはいかない。  今までよりもさらに強く出口を締め、腹からは力を抜く。  転ばないようにバランスをとり、体勢を立て直す。 (よ、よし)  どうにか耐えることに成功した。 (…あっぶな……! そうか、歩道が上下に波打って)  歩道には、車が進入しやすいように低くなっている部分がいくつもある。  しかもこれまで起きた地震の影響や歩道自体の雑な仕上げも手伝ってか、単に低いだけでなくでこぼこしている場所もある。  右足が歩道を強く踏みつけたというのは、そういった場所に足をとられかけたということを意味していた。 (周りもちゃんと意識してないとヤバいな…)  直線道路はまだ続く。  これから先、状態の悪い場所がいくつあるかわからない。  腹と出口の力加減だけでなく、足回りにも注意する必要がある。 (くそ…なんで俺がこんな目に)  目指す場所は遠い。  コンビニの看板はまだ見えない。 (愚痴ってもしょうがないか。とにかく進むんだ)  気を取り直しあらためて覚悟を決め、再び進み出す。 (待てよ…まだだぞ、待てよ……)  自らの肉体に言い聞かせる、待てという言葉。  もう何回、何十回、何百回繰り返したかわからない。  気を抜けば破滅が待っている。  気を抜かなくてもすでに苦しい。  ごきげんな休日は、今や最後の審判と地獄が合わさったとてつもない時間へと様変わりしていた。  しかしそんな中にいようと、進み続ければ光明が見えてくる。 (あれは…!)  久しぶりに、待て以外の言葉が心に浮かんだ。  道路沿いに立つコンビニの看板を見つけたのだ。  しかし歩く速度は上げない。 (ここからだ、ここから…油断するんじゃない、今始まったような気分で行くんだ。わかってるな? わかってるよな? 俺……!)  ようやく見えた希望。  それを絶望へ変えてしまわないために、ペースを守り続けなければならなかった。  コンビニが近くなってきたことで、他の通行人がちらほら顔を出してくる。  彼らは徒歩だったり、あるいは自転車や車に乗っていたりする。移動手段はどうあれ、誰もが自分よりも速い。  しかもこちらの事情など知らぬ顔で、誰もが自分より楽に進んでいる。  そんな彼らの何割かが、コンビニに入っていくのが見えた。 (おい…あんまり入るな、勘弁してくれ)  競争相手が増えるかと思うと、焦りが込み上げる。 (頼む! 俺の邪魔だけはすんなよ……!)  現時点で、邪魔者と決まったわけではない。  彼らは買うだけ買って、すぐに出ていくかもしれない。  どちらにしろ店の中にいない自分に確かめる術はないし、確かめている場合でもない。  それにもし競争相手だったとしても、無理に速度を上げればこちらの人生が終わる。  結局、自分なりのペースを守って歩くしかないのだ。 (集中…!)  目の前の一歩に、意識の全てを向ける。  耐え、歩くことを繰り返す。  何事も起きない。  絶望はやってこない。  希望は希望のまま、ついにコンビニの店舗前まで来た。 (よし…!)  勝利は目前。  しかし喜びもつかの間、突如として腹が暴れ始めた。 (うぐぅっ!)  ゴールを認識した肉体が、意思に反して気を抜いてしまったようだ。 (まだだ…! まだ終わってない、まだ始まったばっかりだぁあっ!)  もはや言い聞かせるという次元ではなく、心で叫ぶ。  少しばかり体を反らせつつ、店内に入った。 「と、トイレ貸してください……!」 「はぁい、どうぞ~」  店員から快諾をもらい、トイレに向かう。  戸を開けて中に入り、カギをかけて便器に向き直る。 (まだだぞ!)  ズボンとパンツを脱がなければならない。  ここで気を抜けば、今までの苦労が水泡に帰す。 (もうちょっとだ、もうちょっとガマンしろ! もうちょっと…まだだぞ、まだ!)  人生史上最速でベルトを外し、ズボンとパンツを下ろす。  便座に腰掛ける。  ようやっとその時が来た。 「はあ……」  出口は開かれる。  腹の中で暴れていた中身が、解き放たれた。 「ありがとうございました~」  トイレを貸してもらった礼にパック飲料を書い、コンビニを出る。  すっきりした腹をさすりながら、空を見上げた。 (よかった…人としての尊厳を、守れた……)  青く晴れた空には、白い雲がふわふわと浮かんでいる。  その景色を美しいと思える今この瞬間に、幸せを感じた。    >Fin.
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