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神ってすごいね
寺社はフィナンシャル・グループだったという説を知っているだろうか。
もっとわかりやすく言うならば、寺社勢力というものは安土桃山時代において巨大な財閥勢力であったのだ。
室町時代から戦国時代にかけて、日本の資産の大半は寺社が所有しており、その最大の寺社と言われているのが比叡山延暦寺だ。
ではどうして寺社が莫大な財力を持つに至ったか。寺社がそれほど寄進を受けていたのは、当時の上層階級の人々にとって「寺社に寄進すれば救われる」と考えていたからだ。そして寺社は余った銭で貸金業も始めた。寺社が余った米を貸す、私的に神社や寺院がそれを行なうのを「私出挙」と呼ぶ。
さて、清吾の村の近くにある高利貸しもそうした寺社の1つであった。
寺社には金がある、金がある寺社には人が集まる。至極簡単な理屈だ、そしてこの世界の一向宗はその勢力をそこまで減らしてはいない。
故に、一向宗に連なるこの寺社が金貸しを行い儲けるのは至極当然とも言えた。
「お願いでございます、この田畑を奪われてしまえば我々は生きていけませぬ!」
今日も、この老いた僧はいつもの光景を見ていた、泣きながら縋るように寺社の前で土下座をする百姓の男、後ろにはその妻と子供が、同じく泣きながらそのなんの価値も無い頭を垂れている。
馬鹿が!
老いた僧は毎度の光景を舐めるように見ながらそう心の中で吐き捨てる。
こいつらは寺社から銭を借り、返すこともせず担保にしていた田畑を取り戻そうとしている不心得者である。
これよりは寺社の統制下におかれ、小作人として生きていくしか無い。生活は困窮し、体の弱い子供は死ぬだろう。
だからなんだと言うのか、僧侶はそう思い悪逆に自分が間違っているわけでは無いと言い訳をする。
借りた者を返さなかった、故に担保を貰う、どこの寺社でもやっていることだろうが!
これより厳しい沙汰を下さねばならないが、私は悪くない。
老いた僧は、気付かない。
彼は既に腐っていた、民の安寧を願い衆生を救うことを目標に生きてきた彼は、しかし人々の安寧を願い祈る手で人々の手を絞めていることに気づかない。
誰もがやっていることだ。
誰かが止めないからだ。
誰しも認めていることだ。
言い訳と自信を正当化する心が、彼の中で渦巻いていた。
醜くなった心と共に、老いた僧は百姓に留めを刺す。
「ならん、全ては証文に書いてあることだ」
「あと1年、あと1年だけ待って下せぇ!そうすれば利息も入れて銭を返すことができやす!」
「ならん!これは規範である!」
醜く喚く百姓に、老僧は一喝を持ってこれを鎮めた。
「そう言って返さず夜逃げするもののどれほど多いことか!信用なぞ出来るものか、この不心得ものが!これは我が寺の総意である、逆らえば仏罰が下ると思うがいい!」
お待ちくだせぇ、そう言う百姓を押し留めるように若い僧兵が百姓とその一家を連れていく。
百姓は泣いていた、その家族も泣いていた。
だが仕方が無いのだ、これもみんなやっていることなのだから。
老人の心は、既に麻痺していたのだ。
だからこれは仏罰なのだ、否、彼に言わせればこれは...
『神罰』
と言うものなのだろう。
「何者だ、貴様!」
「なんだ...ぎゃあ!」
ふと、百姓の一家を連れていた若い僧兵の叫び声が聞こえた。
老僧は不審に思い、近くに控えていた僧兵に指示を出す。
「何かあったようだ、様子を見てくるが良い」
言うが早いか、巨漢の僧兵たちが数人、全員が薙刀や刀を構えて向かって行く。
この時点ではまだ老僧は焦っていなかった。
この時点で考えられることは2つ、1つ目はあの家族が暴走し、僧兵の武器を奪って反撃したことだ。
2人の僧兵をどうにかできるほどあの百姓の腕が立つようには見えなかったがなと首を傾げるような疑問はあるものの、事態としてはありがちなことではあるし、それなら向かわせた数人の僧兵で片がつくだろう。
無論、そのようなことをすれば百姓とその家族は死ぬのが定めだ。
「愚かな奴らだ」
老僧は吐き捨てるようにそう言い放った。
次に考えられるのは百姓たちによる一揆だ、しかしこれはあり得ないことだ。百姓たちは戦闘の専門家ではない、これだけの静けさで僧兵2人を始末できるなどあまりに練度が高すぎる。不可能だ。
ちなみに盗賊という可能性もあるがこれは捨てている、彼らは戦闘のプロであり、その気なら逆に奇襲で2人を殺すなど容易いことだろう。
ま、それなら次に向かわせた僧兵もやられてしまうだろうが、それでも合図くらいは出せるだろう。
この寺には100程度の僧兵が待機している、その総力を持ってすれば10か20もいない盗賊など敵では無いのだ。
その戦力差故にまともな賊はここを襲わない、これが盗賊のことをあまり考えていない理由でもある。
そもそも寺社に襲撃など普通の者ができる筈もあるまい。
老僧は己の道徳心や倫理観に基づき、勝手にそう決めつけていた。
だが、老僧は知らなかった。
吉利支丹、最近日ノ本に蔓延る邪教。
彼らと老僧では倫理観が違う、習慣が違う、趣味嗜好が異なる。
それはあまりに致命的で、信じがたい程の錯誤であった。そしてその錯誤のツケは、老僧の命で支払われることになる。
ぬるりと、まるで妖怪の如く出てきた男に、老僧は声にならない悲鳴をあげた。
その体躯、老僧が見てきた大柄な男が童のように頼りなく見えるほど大きく、その眼は多くの戦場を見て来たように血走っている。
「わ、わわわ若い衆は何をしている!不心得者じゃ!鬼が攻めて来たぞおおおお!」
鬼、そう老僧は彼を称したが、その男と本物の鬼にどれだけの違いがあるのだろうか。
血に濡れた体と、その威圧感はまさしく伝承に伝わる鬼と大差無いのだろう。
そして、ここに桃太郎や一寸法師は居ないのだ。
「おおおおおお!」
「きっ貴様ぁ!」
「取り囲んで仕留めろ!」
次々と武器を持ち集まってくる僧兵たち、その数は十を超える。
先程の数人より上位の、戦い慣れた僧兵たちだ。
数多くの盗賊、不心得ものを殺して来た僧兵たち。あまりにも矛盾しているが、それが現実でもあった。
しかし、鬼のような男顔は少しも歪まない、その彫りの深い顔は激くも穏やかで、遥か高みから武器を持っている僧兵たちを見下ろしている。
老僧から見ても、それは明らかに不気味ではあった。
少しだけ鬼のような男身体がブレる、そしてその度に僧兵たちが倒れていく。
(斬られている!?馬鹿な、あの男は刃物など持ってはいないでは無いか!)
そう、それは老僧から見ても異質な光景であった。
鬼のような男は別に刀を持っている訳では無い、それどころか武器を所持しているようには見えない。
にも関わらず僧兵たちは斬られたような跡を残して倒れて行く。
「まさか...爪か?」
「正解だ」
「!?」
鬼、いやフロイスは武器を所持していない。
服の中にはロザリオが入っているが、人を傷つける用途での武器は一切用意していなかった。
「異教徒、人、アラズ、人ならざるもの、武器、不要です」
その光景は、まさしく圧倒的と言うに相応しい。
フロイスは僧兵たちが相手をして来たどんな相手よりも狂気に満ちていた。
老僧は呆けていた、それはほんの一瞬のことだったのだろうか。それとも数刻の時だっただろうか。
伝統ある寺社の敷地に、仏に仕える僧兵たちの死体が山積みにされている。
たった1人の獣を前に、軍団は壊滅されていたのだ。
ここでようやく、老僧は自分を守る何者ももやはいないことに気づく。
だが、立ち上がれない、年齢のせいか、違う!
恐怖だ。
じろりと、あの鬼がこちらを見たような気がした。
怖い、怖い、怖い。
だが、体は動かない。
一歩ずつ近づいて来る鬼を前に、老僧は這い蹲り、土下座をしながらこう言うしか無かった。
「ど、どうかお助け下さい...お慈悲を...」
目の前で、鬼は動きを止めた気がした。その後、クックッと笑いを堪えるように笑い始めた。
「ダメダナ」
「そっそんな!私を殺すなど、仏様がお許しになるはずが無い!」
「仏様とは、誰ダ?」
「悟りを開いたお方であり、我らを極楽浄土へと連れて行って下さる方のことだ!貴様には縁の無い場所よ!」
鬼のようなものに、震えながらもそう返す。
「そうか、素晴らしい、お題目、ダナ」
「あぁそうだ、この日ノ本で最も素晴らしい教えだ」
「だが、何故、この国、民、笑顔、無い?」
「は?」
「あの世で、救われる、良い。だが、この世、では、救われぬ。何故?」
「この世は汚れた世界だ、あの世にある極楽浄土こそが我らが真に幸せに暮らせる世界だからだ」
「違ウ!」
「何が違うと言うのだ、愚か者め!現にこの世は地獄であったでは無いか!戦は絶えず、人が死に、力を持たない将軍家は何も出来ず朽木に逃げる始末よ!今川様が天下を獲らねばどうなっていたことか!」
「それ、私、見て来た。だが、それ、貴様ら、せい。」
「な、何故だ。我らは人々の安寧と希望を与えるが為に祈っていたでは無いか!」
「違う!貴様ら、祈っていただけ!」
鬼は、怒っていた。初めて会う殺戮者は、本気で寺社に憤りを感じていた。
「あげく、人々、銭、米、巻き上げた!人々、村、苦しんでいる!」
「そんなことは誰もがやっていることだ!」
「何故、立ち上がら、ない!何故、救おうと、しない!誰もが、やって、いる。やらない、違う!」
寺社は連帯して動いている、当然ながら他の寺社と異なることをするのは非常に難しいだろう。
だが、何が規範だ、何が戒律か。
規範とは、人を守る為にあるのだ、それで民衆の首を絞めるなど言語道断である!
「故に、壊す!貴様ら、もう、この国、いらない!」
「やってみろ、一向宗は今川氏の管轄下にある!我らに手を出すと言うことは天下を敵に回すと言うことだぞ!」
「残念、だった、な」
「は?」
「この許可、与えた、今川氏、英雄。」
「ありえない!」
だが、現実は無情だ。
フロイスが寺社へと突撃をかけてからほんの数刻ほどで、寺社は謎の火災によって焼き払われた。
その際に借金の証文に関しては全て焼き払われたおり、これにて村の借金は完全に消滅した。
その後フロイスは南蛮より取り寄せた野菜の栽培に勤め、清吾の村の発展に尽力することになる。
フロイスに対して、領主である諏訪甲斐守勝頼は『咎め無し』との書状を出す。
その手には、輝宗からの手紙が握られていたのだったーーーー
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