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「ねえねえ! 我が家の庭のきいかんぼ、すごく実がなっているんだ。ぼとぼと落ちてくるから鳥どものいい餌になってるんだよ。だから早く家、来て、一緒にきいかんぼを食べよう」
いきなりのドアチャイムの音に、僕が扉を開けると貴方が立っていた。ふかふかのコートとマフラーをして、鼻の頭を真っ赤にして貴方が立っていた。
正月ムードを街がゆるりと忘れていく一月の寒風に、紺色のダッフルコードをまとった小柄な身を縮ませて、僕の安アパートを訪ねてきた。
そうですか、と僕は笑った。大学生の僕のアパートに、哲学の講師をする彼が訪ねてくるのは、もう何度目になるだろう。仕立ての良いコートやふとした所作に、彼の育ちの良さが漂っているのがわかる。
「いつもながらに唐突ですね」
「事実とは、常に流転するものだよ」
何時も通りの訪問に目を丸くしつつ、部屋に一旦戻って防寒具と必要最低限のもの――財布とか手帳とか煙草とかライターとか――が全て入っている『便利バッグ』を手に取り、玄関で革靴を履き、彼の背に続いて部屋の外に出て、鍵を掛ける。
「お待たせしました」
「ううん、ぜんぜん。……何かこの会話って少女漫画っぽいね」
恥ずかしそうに彼がうつむくのを見て、右巻きのつむじに、ふふっと笑みが零れた。
押し掛け女房みたい訪ねてくるは平気なのに、変なところで恥ずかしがる彼が可笑しくて、なぜだか愛おしい。こんな人が、フランスの大学で博士号まで取れたのだろうか。学会で自分の論文を、外国語で発表しているのだろうか。学士すら持ってない僕は思う。
「じゃあ、行こっか」
子供みたいにはしゃぐ彼と共に、薄曇の下に続く道を歩く。歩く。歩く。
彼は言葉をお供にくるくる回りながら、お喋りを続けて。僕は煙草にかちりと火をつけて、お喋りを続けて。きんきんと冷たい夕方の道を二人で歩く。彼の口からも、僕の口からも、同じように白い息が吐き出されていた。
僕の便利バッグの中の手袋は一組しかなかったから、僕の右手と、彼の左手につけた。空いた手のひらで、煙草を吸っては吐いた。空っぽの手をひらりとあげて、彼ははにかみながら口を開いた。
「こういうとき、自分が左利きでよかったと思うんだ」
手を握ろう、と右手が差し出される。僕は、裸の指先にある煙草を、手袋にくるまれた指へと移動させる。それから、自分の手よりもずっと暖かい手を握る。僕の手の冷たさに彼は息をのんで驚き、いつもより強い力でぎゅっと手のひらを握った。
「右利きの人のほうが多いから、右利き同士のカップルは大変だね」
僕はついっと空を見上げて、彼の口から白い息と共に流れ出る言葉たちを眺めた。彼の顔がこちらを振り向く頃には、もうその白さは北風に吹き飛ばされてしまっていた。
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