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彼も僕も『携帯電話』というものを持っていないーー最近では『スマートフォン』と言うべきものかもしれないが。だから、彼はいつも唐突に僕のアパートを訪ねてくる。
顔が見えないというのが酷く嫌なのだ。笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか。鈍感過ぎる僕には、声色だけで相手の『今』なんてわかるはずが無い。直接言葉にしてくれなければ、伝わってこない。
「××と携帯で喋っている」といっても結局喋っている相手は機械で『××』ではないのだ。音声を送りあって何が楽しいのかわからない。
携帯電話という文明の利器を非難するわけではないが(実際、待ち合わせや迷子になった時とかにはさっと連絡できるあたりが「便利でいいなあ」と思っている)僕と、彼には不要な機械だと、電話するくらいなら直接会いに行くのだとたぶんずっと言い続ける。遠距離恋愛や擦れ違いなんて、なった時に考えればよい。
それに、僕は彼の顔が好きだ。これは彼には一度も言ったことがない。言ったら最後、調子に乗るのが目に見えているからだ。
僕はミーハーではないのだが(彼は映画俳優のように格好良くないし、某コンテスト受賞のアイドル俳優みたいに『かっこかわいい』とやらでもない)彼の顔が好きなのだ。ただ、それだけの理由だ。
わかりやすく、平たく言ってしまえば、僕は彼と共有できる時間が一秒でも多く欲しいのだ。電話なんかで、音声なんかで、機械を通す嘘みたいな瞬間で、終わらしてなんか欲しくない。
自分の貪欲さにくつくつと呆れ笑いをしてしまう。ここまで、人は人を愛せるものだろうか。
「そういえば」
思いついたように、僕は口を開いた。
「この前は蜜柑。その前は林檎。そして、今度はきいかんぼ。果物ばっかりで何か意味があるのですか?」
「もちろん!」
得意そうな顔で口早に言い切った。人差し指を僕の眼前に突きつけて、得意顔で彼は言った。
それから、先程の勢いをしゅるしゅると萎め、バツの悪そうな表情を浮かべた。横にすすーと視線を泳がせ、えーと……とお茶を濁しながら、ふつふつと呟きながら唄う。
ああ、その曲か。僕は煙草の煙に乗せて、果物が煙草の害を防いでいくれるという調子っぱずれな歌に相槌を打つ。きんと冷たい透明な空気がふわりと白く濁った。学生時代、彼の音楽の成績は間違いなく2だったろう。
一週間くらい前に中古のCD店に行った時、彼がジャケットに一目惚れをして衝動買いをしてしまったというシングルCD。やけに関心をしながら歌詞カードをしっかりと見ているな、と思ったら、こういうことだったのか。
「本当か、どうかわからないけど。よく言うじゃあないか煙草は癌になりやすい、って」
「僕は、愛煙家のおばあちゃんに、食品のこげの方が高い発ガン性だって言われてきました」
彼はへぇと驚いて、僕の吸っている煙草をひょいと取って足元に落とす。慣れない足つきでぎゅぎゅっと煙草の火を何度も靴の裏で揉み消す。
こんなことは初めてだった。だから驚いてしまった。だからほんのちょびっと嬉しかった。
切なく消えていく煙を見ながら彼はぽつりと言った。忌々しさを混ぜて。
「こげって、なんにしても悪質なんだね」
「ほどほどのこげは、香ばしくておいしいですけどね」
「ああ、炊き込み御飯したときに出来るこげ気味のところとか」
「そうそう。電気炊飯器だとなかなか出来難いですけどね」
彼の家に行って、きいかんぼをたくさん採って、たくさん食べた。彼は皮だけ食べて、中身は庭に捨てとけば良い、と言ったが、貧乏性の僕は律儀に種以外をすべて食した。広い住宅のなか、彼は一人暮らしをしている。彼の口が言葉にしたこと以上、僕は知ろうとしなかった。
皮は甘いのに、中身はすっぱいなんて果実としてどうなのか? とか、外見が似ている蜜柑は果実を食べるのにこれは何で皮をたべるんだろう? とか、彼が発する疑問から始まる他愛もないきいかんぼの話をしていた。
ふたりのコートのぽっけが、小さなきいかんぼでいっぱいになる。歩くたび、ごつりごつりと太股に当たることを気にして、彼はむうと子供っぽい生意気そうな顔で、
「悪質な万引犯みたいだよ」と言った。博士号を取得した彼は、果たしていくつなのだろうか、と僕は苦笑を漏らす。
「悪質な人は誰からもわからないようにすると思いますよ」
「……もっともだ」
にへらと彼は顔を上げて笑った。子どもっぽい瞳の彼と目が合い、僕はくすくすと笑う。
僕等はこれから、スーパーマーケットに行って、きのこの炊き込み御飯の材料を買うだろう。言葉にはしないが、互いの了承事としてその事実は存在していた。
彼の口ずさんだ音楽を聴きながら、二人できのこご飯を作るだろう。いつもよりおこげがちょっと多い炊き込み御飯を、やけに使い勝手の良い彼のキッチンで作り、一緒に「いただきます」をするだろう。
崩れない日常の退屈さほど、ゆるやかなで美しいものはない、と僕は想った。ただ、それだけ、それ以上は望まずに、彼と居るだけだった。
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