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「今日は店を休ませてほしい」
今朝、敦子にそうメッセージを送って、スマートフォンの電源を切っている。姉の事だ。事情を細部まで聞いてくるに違いない。しかし、これは敦子には関係のないことだ。元夫婦とはいえ、これは二人のことなのだ。
娘を失ったかもしれない。そんな傷を分かり合えるのは、少なくとも二人だけ。だからこそ、二人で話がしたくなっていた。
庭の松の辺りを、二羽の小鳥が飛び回った。それは、初めて両親に挨拶に訪れた時にも、見かけた景色だ。その光景は昔と何一つ変わっていない。まるで、時間を遡ってきたかのように見えてきた。
溜飲が上がってくるのを感じる。とっくに腹を決めているという意志があっても、呼び出し器を押すとなると、躊躇いは生じる。しかし、これを押さないと何も前に進まない。再び自分にそう言い聞かせた。
再び決意を固めて、インターホンを押す。
しかし、何も音が返ってこなかった。
中から人が来る気配すらしない。壊れているのか? またあれこれと思考が駆け巡る。
やはり俺達は、繋がることのできない関係なのだろうか? 俺はここに来るべきではなかったのだろうか? また弱い自分が頭に広がろうとしていた。
その時、背後に人の気配がした。
振り向くと、そこには面影のある彼女の姿があった。
互いに歳を重ねたが、そんなものはただの時間の経過の証だ。目の前にいる女性は、由希子そのものだった。
由希子の表情は明らかに引きつっていた。しかし、それは自分も同じだと思った。もしかしたら、それ以上かもしれない。明らかに硬直しているのが分かる。
ずっと由希子に目をやりながら、どのように声をかけていいのか考えを巡らせた。しかし、これと言った言葉が降りて来ない。
二人の間には二人にしか感じることのできない空気が漂うのが、目に見えていた。こんな空気を味わったのは、久しぶりだ。
「どうしたの?」
先に、そんな空気に亀裂を入れたのは由希子だった。か細く、懐かしい声が耳に届いた。
「いや、その・・実は話があって」
俺は、辛うじて答えた。
「話?」
「いや、その」
突然に現れた前夫を目にした彼女の方が、堂々としている。何も言えずに、しどろもどろしている俺に、彼女は痺れを切らしたのだろう。
「よかったら、中に入る?」
予想外の誘いに、俺は頷く。何十年ぶりに、その門を潜った。
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