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二十年以上も前の事だが、当時のことは、今でも胸の中に残っている。記憶とは厄介なもので、こんな忘れたい記憶をはっきりと覚えてしまっている。嬉しかった事や楽しかった事は曖昧なものしか残っていない。深く傷ついた過去だけが、相手の表情と声。それに温度まで、はっきりと残されている。
あの時期は、喜びと楽しみばかりのはずだった。生まれてくる子供と対面する日を指折り待っていたはずだった。当然、二人の会話も、そんな話ばかりだった。だけど、その内容は覚えていない。ただ、たわい無い日常会話と同じように楽しかったという雰囲気だけが映像として残っている。でも、子供の性別をした時の事だけは、鮮明に覚えていた。
「ねえ、どっちだと思う?」
「どっちって?」
「この子。性別分かったの」
「本当に? 生まれて来てくれたらどっちでもいいけど・・・女の子?」
「正解。元気に育ってるって。順調そのものって、言われた」
「うわぁ、どうしよ。なんか、緊張してきたな」
「あなたが緊張してどうするのよ。お父さんらしく頼むわよ」
「まかしてくれ。でも、すごい可愛いだろうな。宮田さんが言ってたよ。家に帰って子供に会うことが楽しみでしょうがないって。俺もそうなるのかな?」
そんな風に浮かれていた自分が、今でも憎いしあほらしい。つくづく自分は馬鹿だったんだと思っている。おそらくだけど、そんな由希子に裏切られたと思っていたから、この記憶がはっきりと残っているのかもしれない。
誰かに確認をとったわけではないけれど、こんな風に結びつけるのは、おかしいのかもしれない。そう何度か思い返したこともある。
でも、ある日突然に、あんな物を突き付けられた立場になれば、同じ気持ちになる人は、きっとどこかに、誰か一人くらいはいるはずだと思いたい。
由希子が離婚届を置いて出て行った数日後に知らされてしまった事実は、自分と娘が関係も繋がりもない事をつきつけられるものだった。
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