プロローグ

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プロローグ

 加藤千春は午前十時に家を出た。暦では春に変わったというのに、冷たい空気がまだ冬の名残りを残す。風が冷気をあちこちに運ぶ。   つい、ポケットから手を出すことを躊躇ってしまう。肩を窄めて少しでも暖を欲してしまう。  歩道には、等間隔に並ぶ桜の木が、いくつか蕾を開いている。木々達が花びらの開くのは、目の前まで来ているようだ。それらを見ていると、陽気な温もりを待ち遠しく思った。  そのまま駅に向かって進んだ。途中、歩道沿いにある公園の片隅で、先生達と散歩している園児達が、賑やかに大きな紅葉の木に向かって顔を上げていた。  なんだろう? 不思議に思いながらその方向に目を向けた。やがて、その疑問は解決した。  園内に入り、園児達の方に近づいた。すると、鳥達の鳴き声が甲高く耳に入ってきた。小さなその巣から、雛鳥達の声が辺りにこだましている。私は、園児達と同じように、巣を見上げた。  元気な鳴き声は、人間の赤ん坊と重なる。まだ言葉を知らないため、感情を必死に伝える。それは、どの生き物も同じのような気がした。  しばらくじっと雛に目を向けていると、大きな影がやって来た。影の主は鳴き声が響く巣を目の前にすると、大きく広げていた羽を、小さく閉じながらスピードを緩めて、巣の端に足をかけた。どうやら親鳥のようだ。その親鳥は嘴から餌を出して与えていた。高くてよく見えないが、きっと子供達は美味しそうにご飯を食べているんだろうなと、想像した。 「親鳥は子供の為にあちこち飛び回って、餌を取りに行くんだ。その間雛鳥達は、親から与えられる餌をとにかく待っている事しかできない。巣で鳴き声を響かせながらずっとだ。自分で餌を採る事がまだできないからな。親はただ子供の為に、必死に外で戦う。子に食事を与えるために、とにかく必死に。それは人間と似ていると思わないか? 先生は家族を持ってからそれを実感するようになったよ」  小学生の時に、授業で先生が言っていた言葉が頭を掠めた。その言葉はずっと頭に残っている。外を飛び回る鳥を見る度に、頭の中から聞こえてくるようになっていた。  それは自分と重なっている。そう思ったのかもしれない。  私には父親がいなかった。生まれてから一度も顔を見た事がない。あんな風に、汗を掻きながら帰ってくる父親というものを肌で感じたことがなかった。生まれた時からずっと。  私の父親は、まだ何処かを飛んでいるのだろうか?
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