ストレスフルな2019年

1/1
65人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

ストレスフルな2019年

2019年の2月父が亡くなった。 肺癌の手術の後、入退院を繰り返しながら痩せて衰弱して行き、自宅で亡くなった。 父が入退院を繰り返している頃から、地元に住んでいる弟よりどうも父も長くないようだ、それより母が言動がおかしく、認知症が疑われる旨聴いて、心配になり神奈川県から宮城県へ帰った。 親族を束ね家長として暮らしていた父の妻だった母は、プライドが高くて鬼しっかりした人で、自らも民生委員として御近所トラブル解決に奔走していた経歴がある。 そのようにしっかりした母が。 本当に、何だか様子が変だった。私が娘なのも成人した孫が居ることもストンと忘れていた。話が噛み合わない。 病中の父も、骨と皮ばかりに痩せてままならない入院生活から憔悴しているところへ、母が頼りなく、頼んだことを片端から忘れたり、事務手続きが全く解らなかったり、話が噛み合わないことにイライラして、怒ってばかりいた。 これは大変だと思いつつ、母の口煩さ、本当に実の母か?というキツイ口煩さを一手に引き受けていた私は、母の世話を弟夫婦に任せて帰宅した。どうしようもない、私には私の家庭があるし、仕事もあった。 弟は容赦なく口煩くなる母に驚いていた。母は母で、自分が頼りなくなるのを感じて、それに父が亡くなる不安とプライドが高くて一人で戦い、疲れていたんだと思う。 それからすぐ父が退院し、自宅で療養することになった。 父は電話で母が全く頼りにならないと、イライラして話していた。 父の介護はヘルパーさんたちに委ねられた。 間もなく、弟より一報がきた。父が亡くなった!、と。 私は再び神奈川県から宮城県へ。 私の家族は子供たちも成人し、私が数日家を空けても何とかやっていけるので助かった。 父が亡くなった哀しみより母が心配だった。 仲は良くないが、あれほどつんとすまして私は家長の嫁でございますの、と、体裁を気にして私に八つ当たりぎみに口煩くするのが日課だった母が、まるで話の通じない人になっている。でも、まだ母親風を吹かせて弟夫婦は振り回されていることを聞くに、肉親への情というか、そういうものが動いて。 喪主として葬儀の段取りや母に任せられない父の負うてきた事の処理で忙殺される弟夫婦に代わり、母の見守りを買って出た。 父の葬儀を仕切りたがる母をなだめ、なるべく誰にも迷惑かけないように。それは根気の要ることだった。 内心、こんなに皆が大変なときに、今まで身内のことを糞味噌に頼りないやつらだとこき下ろしていて、自分はさっさとボケて、呑気に父が亡くなったことだけを嘆いている母に腹が立ったこともあったけれど、母の認知症ぶりに悲哀を感じて、冷静に世話をした。母は私に母親に甘えるように甘えた。 これも葬儀が済むまで、と、私は腹をくくった。 色々すったもんだがあったが、無事父の葬儀が終わり、帰宅して、どっと疲れが出た。 でも、それからも度々私は宮城県へ帰ることとなる。 父亡きあと母の認知症はどんどん進み、地元に住んでいても近くにいない弟夫婦では、面倒見きれなくなってきた。 その頃私自身も加齢による更年期から体の調子が悪く、仕事をしながら神奈川県と宮城県をいったり来たりするのも辛かったし、実家に帰ると認知症の母。 やむ無く仕事を辞めたけれど、私の家族は私を必要としていたし、その切り盛りと母の世話とだんだん暑くなる最中の長距離移動は大変だった。 それにたどり着いた実家では、母とは決して仲が良くはない今までで、これまでのように親族を仕切りたがる母と根比べだ。 私は心が色々擦り切れてきた。 ストレスからだろう、8月、私は耳性の目眩にある日突然襲われ、まともに立っていることも出来なくなって、寝たきり自宅療養に。 私が家事一切ができなくなると、私の家庭は混乱を極めた。 食事は、スーパーのお惣菜、男はがりの私の家族は空腹を満たすためだけに食べるので、偏った食生活になった。私も、家事ができない引け目からそれに順じた。 そして、10月のある日。 左の手足が、力が入らず、感覚がないことに気がついて、それを家族に訴えようとしたらろれつも回らない。 ああ、これは年齢的にも、何かおかしいことになったなと、怖くなり、救急車を呼んで搬送先の病院で脳梗塞であること、血糖値も血圧も通常の数倍あり、危険であることを告げられ、即入院となった。 私が、脳梗塞? まるで実感がなかった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!