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回復に合わせて、病棟を引っ越し
病院にいるとき、二回病室を引っ越した。私が回復するにるにつれ、ナースセンターから離れた病室に引っ越した。
最後に、退院間近の人のための病室に移された。
四人部屋ながら、カーテンでしきりがされていてほぼ個室状態だった。
感心したのが、どんな病室に移ってもも必ず療法士さんたちが迎えに来てくれることだった。
だんだん気心知れて、若い療法士さんたちとも話すようになって、あー、療法士さんの仕事ってこの病院では若さの元気を患者さんに分けてあげることでもあるんだなと気がついた。
皆優しく、頼もしい穏やかさがあって、それに若さの元気もたっぷりある。
若いって凄いんだなと思った。
最後に落ち着いた病棟では、入浴の時間に凄い性能の介護用湯船があってずっとシャワーだった入浴から、ゆっくり湯船に浸かるのはとても贅沢な気持ちになった。
ここでも女性の看護師さんがなるべく患者の自立をフォローする感じで介護してくれて、安心だった。
その頃には私は病棟内を歩き回って散歩することもできるようになった。
まだフラフラと頼りない歩みでも、看護師さんがいて何かあったときフォローしてもらえる環境で、浴びたいとき好きなだけお日様を浴びたり、窓の外を自由に眺められるだけでも気持ちが違った。
処方される薬も、今までは看護師さんが管理してくれていたのが患者個人が管理するかたちで、見守られながら1日分を小分けにして少しづつ任された。
入院ボケというか、まだダメージが体にのこっているからか、結構な種類や量の薬を管理するのは大変だったけれど。
私がいた病棟には他に認知症を患っている患者さんもいたりして、看護師さんは大忙しだった。皆優しくて、私も老いて何かあったときにこんな風に看護してもらえるんだと思うと、心が和んだし、ほっとした。
一度、認知症のある患者さんに外へ行くにはどうしたら良いか聞かれて、手を繋いで病室へ戻ったこともある。
面会しに来た誰かのご家族が、本当の出方を説明してその認知症を患う患者さんが外へ出ていきそうだったので、危なかった。たぶん本人一人では帰り道が思い出せなくて戻ってこれなかったろう。
左手足の麻痺は大分抜けたけれと、舌の麻痺は抜けなかった。
言葉はここの病院に来たときよりは明瞭になったけれど、まだうまく話せなくて、イライラした。
言語療法士さんは優しく励ましてくれて、私も頑張ったけれど、結局退院するまで明瞭に話せなかった。今でも電話で誰かと話すのや、初対面の人と話すのは苦手だ。
ちょっと悲しい。
退院の前に、主治医の先生と療法士さんたちと私の家族も交えて、今後について会議が開かれた。
療法士さんたちの見解では私はいつ退院しても大丈夫、気を付けて動くようにとのことだった。
主治医の先生からは今の私の状態は、無茶さえしなければこのまま回復していく、退院しても大丈夫とのこと。
「明日にも退院できますがどうします?」と聴かれて家族は「じゃあ明日退院で」と即答。
え?こんなあっさり退院て決まるの?と思ったけれど、とにかくシャバの空気が吸えるのは有り難かった。
あとであーと思ったのが、病室にはテレビがあって、たまに見ていたんだけと、既にコロナが話題になっていて、世の中が変容する前に私が退院できたことだ。
確か2019年年の12月中頃のことだったと思う。そのときは世の中がこんなになるなんて思いもしなかった。
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