トリミング

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 せっかく写真部に入ったのに、三ヶ月余りの間、父のお古の安いデジタルカメラで作品を用立てなければならなかったのはそれだけで不利だったし、撮影意欲にも大変に響いた。日々都度、両親へそんな風に下心の透けた不満を漏らして見せても、「お前の技術が足りていないだけだ」と一蹴され、返す言葉も無かった。無心に失敗したらあとはできることなんて一つしかなかった。  毎日の放課後、わずかな時間のアルバイトでこつこつ稼いだお金。念願のミラーレス一眼レフは見た目よりずっと、重たかった。金メダルみたいに首に提げた掛け紐が、ほんの少し首に食い込むのが誇らしかった。意味もなくカメラを両手で握り込みながら、そうしてカレンダーを眺めて、空欄の週末に予定を取り付けた。  そして数日後、バスに乗って訪れた海辺の広大な公園の遠景は、それ自体がとてつもなく大きな波のようだった。よく整えられた小高い丘が十ばかり南北へ数珠のように連なっていて、それは一面を青く瑞々しい草本で覆われている。丘の頂上から見下ろせる西には、広々とした大海が隣り合っていると聞いた。僕は高揚して少し震える手で、真に最初のシャッターを切った。  公園を漫ろ歩き、ふと琴線に触れた瞬間を立ち止まって、ピカピカのカメラで思い思いに切り取った。後で見返したら同じような、欠伸の出る景色ばかりだったけれど。  しばらく気ままに歩くと、照りつける太陽が影を真下に落とすようになった。それに気を取られて俯きがちになって、「なんだか疲れたなあ」と思うようになってきた。あとどれくらいだろうかと、ふと斜面を登りつつ見上げると、丘の頂上に、青空を背景にして三脚が大小二台立っているのが見えた。それは不自然だったが変に画になっていて、無意識にカメラを握った両手が持ち上がった。 「ごめんね、撮られるのは好きじゃないんだ」  三脚の片方がこちらに向かって声を上げた。ぎょっとして手を止めると大きい方の三脚が向きを変えた。それは長身痩躯の男だった。 「す、すいません」  非礼を詫びると、男は額で左右に垂らした長い縮れ髪の奥で、仄かな笑みを浮かべて見せた。    男は鴛淵(おしぶち)と名乗った。写真家だと言う。「そうなんですねー」などと返すと、沈着して剥がれそうに無い隈に深く皺を刻みながら苦笑いを浮かべた。「嘘じゃないよ」  彼は三脚の足下に横たえていたスーツケースから、一冊のA4版の冊子を取りだして僕に手渡した。表紙には、緑の写真が余白なしにプリントされていた。光が射し込んで明るい森のなかに、白いワンピースを着た女性が座っている。よく見ると、腰掛けているのは切り株や岩ではなくて、テレビゲームに出てくるような茶色の宝箱だ。自然の色の微細な交雑が取り巻いていて、そこにぽっかり白色が落ちているので、まるで全体が渦のようだった。シチュエーションもとても特徴的だーーけれどそれとは別に、妙なひっかかりも覚えた。 「不思議、だけど。好きですこれ」  正直な感想を伝えると、彼は口角を僅かに上げたまま「ありがとう」と溜息を吐くように言った。 「これはね、三枚の写真から造ってるんだ」  鴛淵は表紙を撫でながら、指先に視線を落としている。「そういう作品なんだ」  僕が眉を顰めると、彼は続けた。 「風景だけの写真を撮って、次に箱を置いた森を撮る。それで最後にか...彼女に箱に座ってもらって、一枚。二枚目の箱と三枚目の彼女をハサミで切り取って、一枚目の写真に貼り付ければ完成」 「...それって、三枚目の写真とは違うんですか?」 「輪郭の切り抜き方を工夫するんだ。すると、全然違う物になるんだよーーさて」  鴛淵は僕の問いに答えると徐に、傍らに立ててあった三脚へ手を伸ばした。細く骨張った腕は、太い脚の撮影機材とそれに不細工に乗っかっている高価そうなカメラを支えるには不十分に思われたが、撤収作業は滑らかに速やかに行われ、あっという間にスーツケースへ仕舞われていった。 「写真、好きなの?」 「はじめたばかり、です」 「上手になりたい?」 「はい」 「じゃあ、来週からもう少し早くおいで」  僕が返事を返す前に、鴛淵は坂を下りていった。薄い後ろ姿は段々と小さくなっていく。それが予想していたよりずっと早く輪郭をぼかして見失われたとき、ふと振り返ってみると、太陽は既に水平線に接しかけていた。                *   丘のてっぺんに通うようになって二ヶ月になった。土曜日だろうが日曜日だろうが、鴛淵はそこにいた。いつも同じ場所で同じ向きに三脚を立てていた。必ず僕よりも先に居て、僕より先に立ち去った。もしかしたら平日にもいるのかもしれなかった。  鴛淵は見返り一つ無いのに、僕に、写真をよりよく撮る為の術を教授してくれた。露光や絞り値、構図、レンズの種類といった知識や技術。そして、より感性に近い領域のこと。時々気まぐれに宿題を出してきて、それに応じて数枚の写真を用意すると、嬉しそうにそれを眺めて「いいね」と呟いた。決して叱ったりするようなことは無く、穏やかに笑みを浮かべては肯定するばかり。僕は甘ったれなので、そうして褒めてくれるのが何より嬉しかったし、彼の作品にも佇まいにもひどく憧れたので、足繁く通った。 「荷物番を頼むね」  そんな、週末の青空教室が続いたある日のこと。  鴛淵が用を足しに行くと言って、初めて僕をひとりぽっちにした。  彼は先週までその都度に、僕に何も言わず大荷物を抱えて坂を下りて行っていた。こんな風に頼まれたことは、一度もなかった。  嬉しくないわけでは、無かった。  日差しは変わらず、強い。風が多少あるのが救いだ。  彼を見送った後に残ったのはだだっ広い丘の連なりとやけに強い日差しで褪せた空、それから三脚とスーツケースだけだった。  ペットボトルに口を付けて呆けていると、ふと、スーツケースに目が留まった。  僕はその中身を見たことが、これまで一度もなかった。  夏の虫が鳴いている。  土の懐かしく鈍重な匂いがする。  汗が丁寧に背骨をなぞっている。  視線を東に流すと、海の向こうからむらむらと入道雲が沸き立ちつつあった。夕方、もしかしたら、通り雨があるかもしれない。    スーツケースの中は、一目見ただけでは期待外れの内容だった。  カメラとレンズを包む為の毛布、初めてここで出会ったときに見せてもらった写真集、ずっしり重いL版用のバインダー。 「ーーーん?」  そして、タバコの箱くらいの大きさの木箱。  鴛淵がタバコを吸っているのを見たことはない。  木箱を手にとって振ってみると、紙の擦れる音と無数の、小さく堅い何か粒のような物がぶつかり合う高く軽快な音がした。暗い木目を矯めつ眇めつしてみても、開閉に用いるような取っ手は見あたらない。  詮方ないので表面を撫で回していると、ふと、よく処理された表面の一部に僅かな溝を感じた。それは視認するのは難しかったが、特定の面をスライドさせれば開く構造を示唆しているように思われた。  丘の上から公衆トイレのある公園駐車場までは生半でない距離がある。 陽炎の先にあの三脚のような男の姿はない。  おそるおそる指先に力を込めると、木材同士の擦れあう低く軽い音がした。  直方体の一面が抜き放たれた。 「あ...え」  そこには、親指の爪くらいの小さな白い袋が隙間無く敷き詰められていた。僕はそれに見覚えがあった。 「乾燥剤...?」  カメラのレンズはそれ単体で大変高価なものだが、衝撃と湿度に大変弱い。前者はともかく後者は、なんらかの措置をとらないといずれレンズは黴びてしまい、使い物にならなくなってしまう。だから写真家の多くは、乾燥剤を欠かさず持っているものだ。  ―――あまりにも拍子抜けだった。もしかしたら、と思っていた。あの神秘的な写真家、その独創的な作品の種になるもの。それか、技量の源。なにがしかの魔法。それを期待していた。それだけに、消耗品の倉庫だなんて、それはあまりに現実すぎた。 「馬鹿みたいだ」  肩に入っていた力がどっと抜けると同時に、罪悪感が胸元までせり上がってきた。それは自己嫌悪と血を分けた色をしていた。  怠くなった掌で、木箱に蓋を、当てがった。 「ん?」  詰め込まれた真っ白の乾燥剤の奥に、色彩のあるものが見えた。なんだろう。  それをもっとよく見ようとして、不用意に箱を傾けた。 「あっ―――くそ、ほんとにっ...」  地面にぼとぼとと、乾燥剤は散らばった。土汚れが心配だったが、かき集めてみると、運良くそこまでひどい有様にはならずに済んだようだった。  ほっと溜息を吐いて、胸焼けめいた自嘲の念に口元をゆがめながら、このまま元のように収めて良いものかと箱を覗き込んだ。  底にあったものと目が合った。  それは乾燥剤よりはずっと珍しいものだった。  けれど見覚えがあったし、納得した。  僕はほとほと疲れ果てていて、もうどうでも良くなっていた。  だから早々に箱を閉じて、無愛想な二枚貝のようなスーツケースを閉じたのだ。  そしてできるだけ、在ったように直した。 「どうかしたのかな」  スーツケースから離れようという時だった。  どうしていきなりそんなことを、と、鴛淵は首を傾げてみせた。 「...初めてお会いしたとき、聞き損ねたので」  僕は掌に残った汗をシャツの裾で拭った。濃く残った染みは折り込んで見えないようにした。苦し紛れに、甚だ不自然なタイミングで投げかけた問い以外からこれ以上、僕の不義を暴かれないように。  鴛淵は「写真を撮る理由、ね」と呟いた。しばらく呼ばなかった人を名指しで呼ぶような、躊躇いと居心地の悪さが滲んでいた。  彼は徐に、三脚に据え置かれたカメラを中指で撫ぜた。丁寧にカメラの輪郭をなぞっていって、やがて重力を思い出したように手を下ろした。 「不断に流れている時間が、あるね。それから、世界。写真を撮るというのは、ここにむりやり小さな額縁を打ち込んで勝手に切り取る作業だ」  僕は、両手に作った二つのL字を組み合わせて、それでできた四角形の風景を覗き込んでいる自分を、想像した。それは僕にとっては少しも気にかかる所作ではなかった。 「それが、良くないことなんですか」 「いや、別に。そういう風には思ってないかな」  でもね、と、鴛淵はすぐさま打ち消して続けた。 「でもそれは当然、「違う」んだ。当たり前だ、そのものじゃない。でも写真は、時に、そして往々にして現実やリアリティの証左に使われる。違和感をそのままにして」  それはとても気持ち悪いことだ、と、僕は思った。 「当事者の見た色彩、覚えた感覚...数え切れない量の情報が限定されたそれにリアリティを求めたくなくなった、僕は。形にしたときから狂っているんだ、じゃあそこに違和感を重ねたらどんなものになるんだろう。僕はそう考えて、長いこと写真を撮って、切り抜いて、重ねてきた」  鴛淵は唐突に身を屈めて、スーツケースに手をかけた。心臓が大きく跳ね上がり、喉が鳴りかける。  そして彼はあの写真集を、差し出してきた。受け取ると、開くように促された。表紙も、一枚一枚のぺージも、水を吸ったように重く感じたが、振りだけはしておいた。 「そこに載っている女性は、全て同じ人物だ」  ページをめくる自分の手が覚束ないことに腹が立った。 「僕の妻だ」  糾弾を恐れる悪寒が、背骨の髄をも震わせそうだった。手からにじみ出てくる汗で汚さないようにするのでやっとで、視点は光沢ある紙面の表層を漂い続けて定まらない。  もう謝ってしまおうかと、頬がひきつった。 「彼女はもういなくなってしまった」  その言葉そのものよりも。  声色も、口調も、そして抑揚さえも変わらなかったことに驚いて、僕は顔を上げた。  炎天下に汗玉ひとつ浮かべることなく、彼は涼やかに屹立していた。  深い隈に乗っかった瞳は薄く伸びて、昨日の方を見つめていた。  緩く結ばれていた口が、再び開かれた。 「僕は彼女の写った最後の写真から、彼女を切り取った。そこにあった文脈をほんの少し残しておいて。切り取られたということ、それが完全ではないこと、そういう違和感が、そこにはある。  僕は写真に、彼女を重ねる。ここにはもういなくなってしまった人がフィルムに写る違和感が、そこにはある。  今僕がカメラを向け続けているこの景色にいずれ、わずかに異なる文脈が残った彼女が重なる。絶対に溶け合わない、完成しない不協和は、違和感は、彼女をそこに克明に生かしてくれる。そうなるはずなんだ」  言っていることはよくわからなかった。そもそも僕に向かって説明していたのかさえ、わからない。 (―――あれ?)  不意に、口の中に鋭い痛みが走り、不快な味が広がった。口元に右手を遣ると、人差し指の先に、僅かに血が付いていた。  顎の筋肉が異常に硬直していた。それで、余計に困惑した。  けれどそれは、おそるおそる親指と人差し指で揉むと呆気なく和らいだ。同時に、鼻を抜けていく鉄の匂いがあった。  左手はきつく握り拳になっていた。爪が食い込んで痛いなぁ、と思った。このまま自分を殴りつけることができていたら、少し報われるのかなとも、思った。  噛み切った唇は酷いだろうか。僕はどんな表情をしているんだろう。  ―――けれどああ、鏡を見なくてもわかることがある。 「僕は今、この違和感だけにすがりついて、生きている」  瞳だけは、卑しい感情を兆した化け物のような緑色に、違いない。                *  夏にしては驚くほど涼しく、むしろ寒いとも言えた。  花祭りを前日に控えた丘の麓には、明日の開催を危ぶむ作業着の人々の影がちらほらと見られた。蕾がいずれも、まだ花開きそうになかったから。  つぼんだ花園を見渡して、中途半端でみすぼらしいなと思った。 「運が良いね」  鴛淵は三脚を少し動かしながら言った。 「運が良い、ですか?」 「こんな風景、そう見れたものじゃないからね」  だってほら、花って気付いたら咲いてるものだろ?と、鴛淵は笑った。 「...そうですね」  僕はもう一度、丘を見下ろした。  驚くことに、その景色が、数秒前より少し美しく見えた。あろうことか興味深く、貴重なものだという感想すら、脳裏を過ぎった。  左手の甲にぴりりと、ひきつるような痛みがあった。右手で覆うと少し良くなったような気がしたが、爪を立てると、ずっと良くなった。 「あんまり掻いたら駄目だよ」  腰に手を当てて、鴛淵は笑いかけてきた。三脚に見間違えたこともあるそのすらりとした体躯は、いつ見ても「それらしい」気品を漂わせている。 「そう、します」  右手を止めて、首にかけていたカメラを握った。左手の痛みはなくなった。 「折角だ。今日しかできないことを、しておいで」  ファインダーを覗き込みながら鴛淵は、言う。それは既に一定の答えがあるかのように聞こえて、僕は頭の中で見当をつけはじめた。  太陽を遮って広がる雲?  冷たい北風で波打つ海面?  麓で作業に打ち込む人々?  隠れて明日を待つ蕾?  頂上から坂を下り始めてみると、どれも陳腐で、面白味の無いものに思えてきた。  雲なんていつもあった。海はいつも波打っている。麓にはいつも幾人かは人が居るものだ。蕾だって、昨晩にすべてが宿ったわけじゃない。  正しいのはなんだろう。  鴛淵の「いいね」という声を思い出した。  途端、咳込みそうな嫌悪感が肺を支配した。  もうよそう、と、顔を上げた。 「っ―――!」  瞳に鋭い光が射し込んだ。誰かに悪戯でもされたのかと思ったが、少し顔をずらしたらそれは止んだ。  疑問に思いながらそれでも進むと、正体は足下に転がっていた。  それは真新しいハサミだった。土の上に重く、横たわっていた。  持ち主は、と、周囲を見回した。けれどいつの間にか麓の人々は居なくなっていたし、見えるところにはそもそも誰もいない。  どうでもいい、と通り過ぎようとしたとき、唐突に鴛淵の言葉を思い出した。 「今日、しか」  踵を返して、ハサミを拾い上げた。それは、とても鋭そうに見えた。  たぶん「間違っている」。けれど―――  僕はそれをポケットにいれて、そのまま丘を登り始めた。  視線を上げると、鴛淵が下ってくるのが見えた。 「調子は、どう?」  何気ない問いに、僕は何も応えずすれ違った。  僕は頂上へ向かった。                ×    炎天下、花祭りは盛況を極めていた。これまで見たことのないほどの丘の混雑は、遠目で見るとまるで、蟻の巣の前に転がした飴玉のようだった。  昨日までひっそりと蕾が隠れた草地でしかなかったどこもかしこも、鮮やかで整理された色彩が輝いている。それは色だけを見れば美しかったが、それ以上の価値は見いだせそうになかった。  いつもの丘の上の方から、女性の悲鳴が上がった。  花に浮かれた大勢の観光客の誰もが顔を強ばらせ、丘を見上げていた。 僕もその中に混じって、見上げた。空は今日も、少し褪せた青だった。   やがてどよめきはこちらまで伝播して、何かにぶつかるのを避けるように、人だかりが割れた。 「―――あ、ああ、あああぁあっ!!」  男の咽び泣く声が聞こえてきた。 「あ、あ、あ、ああああ、ああぁ!!」  男の咽び泣く声が近づきつつあった。  道の端へ避けることにした。  人だかりは、参道の石畳を彷彿とさせる様相を呈していた。  厳粛な在り方というより、それは道端の猫の死骸を避ける様子によく似ていた。  異様な緊張感と不自然な花園がグロテスクな混ざり方をしていて、写真にするには気味が悪いなと、思った。 「やるものかっ!やるものかっ!!!」  胸に何かを押し抱くように身体を丸め、  今にも倒れそうに顎を上げて仰ぎ、  喘ぎ、  絡まりそうな髪を振り乱して、  鴛淵が目前を走り抜けて行った。  誰もが口々にその気味の悪さを、思ったままを吐き出していた。  悪趣味な人間は首を傾け、その行く末に興味を示していた。  下品な人間は勝手にストーリーをでっち上げて、その姿に同情を示していた。  一様に、脚を止めていた。  僕はその間を、縫うように進んだ。  慣れた坂道はいつもと違うけれど、頂には三脚とスーツケースが変わらずあった。  その傍らに、たくさんの白く小さな乾燥剤が、踏まれて散った花弁のように広がっていた。                  ×    僕はスーツケースを開いて、木箱を手に取った。  今度は容易に開けられた。  積まれた乾燥剤の一部を取り払った。  底には、切り抜かれた女性の写真。白く上品なワンピースの女性。  シルエットに多少厚みがでるほどの僅かな背景を残して、雑にトリミングされている。乾燥剤の中で笑みを浮かべている様子は、さながら腐らないように保管された美しい死体のようだった。  ポケットに手を突っ込んで、すぐに僕は、ハサミを探り当てた。  金属の冷ややかなほどは、しかし、僕の内にある卑しい熱を冷ますには無力がすぎた。むしろその熱伝導の優れた具合をもって、僕の興奮を加速させた。  無機質な鋭い光沢を、女性の首にあてがってみた―――そして、やめた。  少し考えた。そして僕は、丁寧に、彼女の輪郭を切り抜くことにした。    夏の太陽を反射しては目映く瞬く刃が、彼女自身を傷つけず、ただその輪郭を、シルエットを剥がしていく。    なにはなくとも辛うじてそこにあった彼女は、背景から切り抜かれていく。    妙な興奮を覚えた。卵を握り潰してしまったときの僅かな優越感によく似たやつだ。    彼女は少しずつ、    溶けて、    流れ出ていった。    端から順番に、世界に混ざっていった。    綺麗に整え終わったとき、そこで笑みを浮かべている女性は、  まるで別人のようだった。  
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