子思う親、親思う子

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子思う親、親思う子

 ミトラと話せる力は、様々なふうに役に立つ。  ミトラたちの要求を訊いて恩を売れば、気まぐれな彼らも少しは協力的になし、ミトラたちはたいていどこにでもいるので、人の気配のない山道でも道案内――正確性にやや難はあるが――に事欠くことはない。  こうして、人間とミトラとの意思疎通に一役買うことができるのも、零夜の能力の長所というべきだった。  ゲルトの屋敷で一晩を明かした翌朝、一行は連れ立って街の外へと出た。久々に屋根のある場所で寝たために旅の三人は晴れ晴れとした気分だが、ゲルトとハーヴはそうもいかないようだ。  ハーヴは一晩中ゲルトから離れたがらず、少しまどろんではすぐに目を覚まし、土の下の我が子を思いすすり泣いた。ハーヴの両親は既に他界しており、生まれ育った屋敷も経時の劣化に朽ち果てた。彼女が雪下に過ごした六十年はあまりに重く、とても一晩では消化できるものではない。彼女が泣けば、ゲルトは寒さに軋む老体を起こして彼女の背をさすった。  長い夜だっただろう。朝になり出掛ける支度をする二人は、長い旅路を来た零夜たち三人よりも、ずっと疲れて見えた。 「話して、それでどうするつもりなんだろうな」  ゲルトとハーヴに聞こえないように、キヤが零夜に耳打ちをした。外套を着込み、風が入らないようにマフラーを首元へ押し込む。更にその上からマントを羽織り、零夜は「さあ」と答える。 「会って話すだけでも、気持ちの整理がつくんじゃないか」 「気持ちの整理って、どういう」 「知らないよ。でも話せるなら、話した方が良いだろ……たぶん」  実際にミトラと話すのは零夜だ。「お前が良いなら良いけど」と、キヤはあくまで他人事の態度を崩さない。ティエラは何かと泣きがちなハーヴを気遣って、あれこれと話しかけているようだった。  出発前に熱い薬湯を飲んで身体を温め、銀色の朝へ向かって屋敷の扉は開かれた。  代わり映えのしない白が広がる雪原に、ぽつりと空に伸びるイトスギ。その根本こそが、昨日ハーヴが倒れていた場所であり、六十年前にハーヴと冬のミトラが埋められた場所だ。  午前の光が雪に反射して、針のように眩しく眼球を刺す。大きく吐いた息が煙になって凍りつく。昨晩降り積もったばかりの新雪を踏み固めながら、その場所へと向かった。  果たして地上から、地下に眠るメイディへ声が届くのか。こちらの声が届いたとして、メイディの声を上手く拾うことができるのか。不安になりつつも、零夜はイトスギに積もった雪を手で払った。雪の中に隠れていた豆粒のようなミトラが驚き、十二本の腕を振り上げて突然の無礼に抗議する。 「ごめん。あのさ、砂糖菓子とか食べたくない?」  ゲルトに用意してもらった砂糖菓子を差し出すと、思った通り豆粒ミトラは興味を示した。こういった小さなミトラはたいてい、甘いものが好物だ。 「この下にいる、冬のミトラを呼んでほしいんだ。寝てるかもしれない。真っ白なミトラだよ。わかる?」 『たぶんなー。よんできたらそれ、くれるか?』 「あげるよ。二個あげる」  二個も貰えると知って、豆粒ミトラの単眼がきらりと光った。『ちょっとまってて』と言い、イトスギの葉陰に姿をくらませる。どういった経路で地下へ潜っているのか、それは本人にしか分からない。零夜は寒風に鼻先をかじかませながら、ただ待つだけだ。  体感にして五分ほど経っただろうか。イトスギの幹に、白い線が浮き上がった。線はゆったりとした動きで揺らめきながら、互いに寄り合って太い一本のすじとなる。  それは糸だった。細い糸の束はその先端を五つに分かち、やがてイトスギの幹より離れて零夜へとその指を伸ばす。 「……メイディ?」  零夜の背後から、ハーヴが呼びかける。すると深い雪と土の奥底から糸を通じて、ギイギイと引き攣れるようなしわがれ声がかすかに響いた。  零夜は糸の成した手を取り、よく聞こえるように耳元へとあてる。役目を終えた豆粒ミトラが、零夜の手から砂糖菓子を掠め取っていく。 『おかあさん……おかあさんのこえがする』  零夜にしか解らない言葉で、メイディはギイギイ呟いていた。皆、その声に耳を澄ます。 「きみが、メイディ?」  零夜が呼びかけると、メイディは糸の手で探るように零夜の顔を撫でる。頬に触り、鼻すじをなぞり、耳をつまみ、瞼に触れる。零夜はじっと動かずに、糸のするがままにさせておく。地下に埋まるメイディにとって、この糸へ触れるものだけが、外界を知る唯一の手段なのだろう。 『だれ? わたしのことばがわかるの?』 「メイディ、聞かせてほしいんだ。きみが何を考えているのか。お母さんが、きみを心配してるよ」 『……いや。わたし、はなさない』 「どうして?」  メイディは答えない。極寒の中に沈黙は氷のように貼り巡る。しかし無言のままでも、白い糸の手を伸ばしたままであることが、メイディの真意を語っていた。零夜にも――恐らく誰にも覚えのある矛盾した気持ち。話したくない、けれど聞いてほしい。構わないでほしい、けれど行かないでほしい。  メイディの白い手は、零夜の頬に触れたまま動かない。  ここは自分ではどうしようもない場面だ。そう判断した零夜は、目配せでハーヴを呼んだ。涙と寝不足のために酷く目を腫らしているハーヴは、ゲルトに支えられながらイトスギの傍へと歩む。  ハーヴの細い指が、幹より伸びた白い糸の手に触れる。手は一瞬驚いたように(ほど)けたものの、またすぐに元の形を取り戻した。ギイイ、と引き攣る声がハーヴの耳にも届く。 「メイディ、お母さんのこと、嫌いになった?」  ハーヴが問うと、途端、ガラスを引っ掻くような音が空気をつんざいた。零夜やゲルトだけでなく、後ろで控えていたティエラやキヤまでもが思わず耳を塞ぐ。ちがう、ちがうと何度も繰り返す声が混じる、悲痛な叫び。 「違う、って言ってる。すごく悲しんで、混乱してます」  ハーヴに伝えると、彼女は震える糸の手を握った。糸はそれを振りほどこうとするようにぶるりと波打ったが、ハーヴは意外なほどの強さで手を握ったまま離さない。疲れ切り打ちひしがれていたはずの彼女の表情に、生気が戻る。その正体は、少しの怒りだった。 「違うのなら、きちんと聞かせてちょうだい。あなたが何を考えているのか、何を望んでいるのか。言葉にしなければ分からないわ。私はたくさん、私のことを話したでしょう。次はあなたの番よ、メイディ!」  子を叱りつける母親のように――いや、実際そうなのだろう。ハーヴは毅然とした声で言い放つ。ヒュウ、とメイディが喉を鳴らした。『でも』という意を含んだその音の、しかしその先の言い訳は紡がれない。  とりわけ強く風が吹き、イトスギの雪が煙となって舞い散る。その雪煙に隠れてしまうほどの小さな声で、『わたし、おかあさん、だいすき』とメイディは言った。 『おかあさんがいてくれて、さみしくなくなったよ。たくさんゆめをみて、すごくたのしかった。ずっといっしょにいたかった……でも』  果たしてメイディの脳裏から離れなかったのは、寂しさに身を震わし涙を流す、母の姿だった。メイディには、その涙の全ては理解できない。それでも、よく解った感情がひとつだけあった。  ――寂しい。  故郷を離れ、見知った者から引き離され、心細くたまらない気持ち。メイディもよく知るその気持ちに、母が囚われているのだとしたら。 『わたし、おかあさんだいすきだから、おかあさんさみしいの、いやなの。おかあさんさみしいなら、わたしがさみしいほうがいい』  夢の中ならばかろうじて人間の言葉を話せたメイディも、現実の世界では耳に不快な濁った鳴き声しか出せない。当然ながらその音に含まれた意味などハーヴには分かりようがないが、しかし今や言葉以上のもので、ハーヴとメイディは確かに繋がれていた。  ハーヴは愛おしげに、真っ白な糸を撫でさする。 『わたしのことばがわかるひと。おかあさんにつたえて』 「……メイディが、伝えてほしいことがあるって」  そして零夜は、自分が代弁すべきメイディの言葉を待つ。メイディはしばらく沈黙していたが、やがて決心したように、ギイイと鳴いた。 「『おかあさん、わたしのことはわすれて。しあわせになって』」  鈍色の空から降る白は、もう充分に漂白された景色をどこまでも白く白く上塗りしていく。メイディはそれ以上、何も話そうとはしなかった。糸は再びイトスギの幹を伝って地下へと降り、二度と伸びてくることはなかった。
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