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こいぬはどうしてうまれたか
星明りに照らされた二人の前に、突如三つの扉が現れた。冷えた夜の空気はいつもどおり丘の草木をほのかに揺らしている。
「それで? これがぼくの試験ってわけ?」
少年とも少女とも見分けがつかない子供が言った。髪はアメジスト色で、短かった。猫のような眼は鋭く光っていて、声は高い。
「……試験というか試練というか。まあそういうルールってこったな」
そう面倒くさそうに口を動かしたのは、白と青のまだら模様の長い髪を高くポニーテールのようにくくった長身の男だった。男は身の丈以上の鎌のようなものの柄の部分を地面に突き刺し、刃の反対の部分――反対部分は槌のように平たくなっている――にあぐらをかいて座っていた。
「ふうん、まあ試験でも試練でもどっちでもいいけれどさ。じゃあ、この扉をどうすればいいっていうの?」
子供は扉をノックしてみた。木とも鉄ともわからない反響音が返ってくる。ドアノブには触れなかった。
「それについては補佐官の私が説明しましょう」男のものではない、少しあどけないような声がした。
子供がきょろきょろと夜の世界を見渡すが、そこにいるのは自分と男の二人だけだった。声は男の下の方から聞こえた気がした。ということは。
「――まさかその鎌、生きているの?」
「鎌じゃないです。カナヅチです」自称カナヅチがしゃべった。
子供が半分笑って、「……たしかにカナヅチに見えなくもないけれど。なんでもありなの?」とカナヅチを見上げた。
「私の存在意義や定義についていまは関係ありません――。言ってしまえばリアルではないこの幻想世界においては、魔法で空を飛んでも、マグマが冷たくても、一生枯れない花があっても――なんでもありといえるでしょう」
そりゃそうだけれどぼくもずっと生きてきた世界だし、とその子供は言いながらもなんでカナヅチが、といったようなふうな表情をつくった。
カナヅチは続ける。「あなたにはこの三つの扉の一つを選んでいただきます」
「ひとつだけ?」指を一本立てた。
「ひとつだけです」
「……選ぶとどうなるの? まあなんとなくわかるけれど」
「その扉がアタリであればあなたはお望み通りリアルに行くことができます。リアルとは――説明するまでもないでしょうが、人間たちが生まれてきたオリジナルの世界のことです。ハズレであればこの幻想世界のどこかに飛ばされます。この試練を受けることは二度とできません」
「二度とって……。それきつくない?」
「それが試験というものです。……ではさあ、選んでください」カナヅチが無機質にいう。
「…………」
子供は三つの扉を睨むように見つめながら、薄手のロングコートの裾が北風に遊ばれているのを左手で軽く抑えた。
冬の設定の割に気温は低くないという予報はその通りだったが(気温設定を予報と呼んでいいかは別として)、やはり外気に晒されている顔や手は冷えるだろう。
「どうした? ほら、選べよ」今度はカナヅチではなく男が言う。
「――そんなすぐ選べないよ。だってこれで間違えたらぼくはもうリアルに行けないんでしょ? この世界にいるしかないんでしょ?」
「この世界がそんなに嫌なのか」
「…………嫌じゃない……けど。」子供は選ぶことに戸惑っているようだった。「……そうだ、なんで三つなのさ?」
「それは――」とカナヅチが答えようとして、
「質問の多いガキだな、お前が望んだ試練だろうが」と男が口を挟んだ。ポニーテールをがさつに撫でながら、「――三つってのは、俺のポリシーだ。出題者かつ管理者は俺だからな」
「ポリシーって?」
「まず考えなさい、って学校で習わなかったか? ったく」と男はまた自慢のポニーテールをいじった。
子供は無言で男をじっと見つめている。
「……まあいい。今回は答えてやる。――俺はな、思うんだよ。いいか? 人生ってのは人の数だけ道があるとかいうやつがいるだろう。わからないか? ……まあいるんだよ。そういうやつが。子供にそういうふうに教えているやつがな。そしてだな。俺はそれを嘘だと思うんだよな。真っ赤なウソってわけ。フラミンゴもびっくりだぞ」
フラミンゴって知ってるか? と男が軽口をたたいて、
「フラミンゴは食べ物によって色が変わるらしいですけどね」とカナヅチが横入りした。
子供は何を言っているかわからない、というか、どういう話の方向性かわからないというふうに首を傾げた。
「つまりだな、俺が思うに人生ってのは三つの選択肢しかないんだよ――」男は指を三つ折りながらいった。「自分の夢を現実にするか、現実をこれが夢だったんだと言い聞かせるのか、そもそも夢なんて知らないか、だ」
子供は怪訝な顔をした。
「……例えば夢を見て努力するって選択肢はないの?」
ぼくのように、と子供は言いたかったが、付け加えなかった。
「ふん、くだらないな。夢を見るってことは、とどのつまり現実を生きるのと同義だと俺は思うがね。……と、なんだかんだと俺は言ったが、お前がアタリの扉を開くことができれば、それでオーケーだ。夢を現実にできる可能性を――つまりリアルに行かせてやる。お前はリアルに行きたいんだろう? 理由は知らないし俺には関係ないけどな。ほら早く選べよ。風邪、ひいちまうぞ?」
「…………」
自分がリアルに行きたい理由。それは――。
子供は心の中でそうつぶやくと、扉から目を背け、夜空を見上げた。
冬の設定。
冬の星空。
それは夜の海に砂金を落としたかのようにキラキラと輝いている。一見すると悠久を感じさせ、人間はそれに簡単に酔うことができる……。
子供は夜空を見上げたまま右目だけを閉じると、カチッという小気味いい音が冷たい空気を伝って響き渡った。
「……なにをした?」男が訊く。
それに答えず、子供は右手の人差し指と親指をピタリとくっつけて、それをデコピンをするように勢いよく離すと、長方形のプライベート・ウインドウが表示された。ウインドウを手早く操作すると、目の前に右目で撮影した星空が映し出された。
「ぼくは生まれてこのかた、この世界でずっと生活してきた」
「えっと、なんの話です――」とカナヅチが言いかけ、男がすっとカナヅチに触れてそれを遮った。
子供は続ける。「――この世界にはこんなに満天の星空がある。でもぼくはそれがそういう設定であり、偽物であることを知っている。逆にぼくはリアルがどんなところか知らない。もう十二歳になるけれど行ったことがないからね。だから本物の星空の見たい。この写真をリアルに持って行って比べてみたい。偽物でこんなに美しいのなら、本物はもっと美しいはずだ」
男は驚きながら写真をみた。どうやら先ほどの右目のウインクは写真を撮影する動作だったらしい。
「なるほど、確かにこの写真はリアルの空とはちょっとばかし違うかもしれない。だが、お前は生まれてきたこの世界の星空が偽物で、リアルの見たことない星空を本物だと定義するのか? こっちで生まれたお前にとっての本物はこの写真の星空なんじゃないのか?」
「……設定じゃない、そのままの星を見てみたいんだ」小さな声で子供が言った。
「設定じゃないリアルの星ってのはな。例えば汚い光かもしれない。そもそも光すら届かないかもしれない。星空なんて見えないかもしれない。それでも行きたいのか?」
男はじっと子供は見つめた。
それから子供は目線を逸らさずにひとつ頷くと、
「ぼくはリアルを見たい。汚くても構わない。それが幻想世界じゃないのなら」
その目は本物だったように、男は思った。
それから男は夜空を見上げながら、観念したように長く息を吐いた。
「わかったよ。でも仮にリアルに行けたとして、リアルの星空を見て――それからどうするつもりなんだ?」
子供はきょとんとした。
「あー。そういえばそうだね。決めていないけれど、うーん。どうせならリアルの世界をいっぱい撮りたいと思う。リアルじゃこの右目で撮れないから、外部機関――カメラっていうらしいけど――に頼るしかない。汚くても、思い通りの風景じゃなくても、それでもぼくは本物の世界を撮ってみたいな」
「……まあ、そうかもな。ここにずっといれば、そういう気持ちにもなるか……。結局それはお前がリアルに行って、見てそれで判断することだしな、それも俺には関係なかったな。……よっと」
男はカナヅチから降りると、子供の方にいき、一緒に写真をみた。そして四角い写真のなかの大きな逆三角形を指さした。「……ははーん。たしかにこりゃ作り物みたいにきれいな写真だ。とくにこの一番、白く輝いている星。いいな、これ」
「ああ、冬の大三角形。それはシリウスっていうんだ」
三つの中で一番輝いて見える星。
言いながら子供はふと思った。
三つのうちのどれかの、リアルへの扉。それが自分にとってのシリウスなんだと。
「そうかシリウスっていうのか……」男はニッと笑うと、「教えてもらったついでにひとつサービスしてやろう」と、カナヅチの槌の部分を地面に叩きつけた。
真ん中の扉がひらく。
「……これは?」
「だからサービスだと言ったろう」
左右の二択にしたということなのか。
「そろそろお話もおしまいだ。さあ、どれに行く?」
男は微笑みかけた。
右か、左か――。
そして子供はもう迷いなくこう言った。
「つまらない現実を受け入れるのも、夢を知らんぷりすることも、ぼくはしたくない。でも現実を享受することは、大抵の人がそうするように簡単で楽でしょ。普通はそうするんでしょ」
「……なにがいいたいんだ?」
「だからぼくはこうするんだ。ありがとう、管理人さんと――、カナヅチさん」
そういいながら子供は、もう開いている扉へと進んでいった。
「おい、待てよ。本当かよ。それでいいのかよ? それは俺がサービスで開いてあげた扉だぞ――」
言い切るまでに、子供の姿は見えなくなった。
子供は一度も振り向かなかった。
男の丘に寝転がりながら、頭上にあるきっと永久に変わることのない満天の星空を眺めていた。
「あの子はリアルに行けたと思うかい?」カナヅチが言った。
「……ふん。答えなんて知っているくせによく言う」
「ばれたか。まあ、キミの甘さも大概だよ。……どの扉もリアルに繋がっていたんだろう? あの試練は《選択をすることができるか》っていうところかな」
男は答えず、夜空に映し出された三角形を眺めていた。
カナヅチは続ける。「じゃあさ、あの子はリアルで思った通りにうまくやれると思う?」
「……いいや、思わないな」
「どうして?」
「この星空のように、偽物の人生の方が美しいこともある。というか、本物が醜いことのほうが圧倒的に多いだろう。成功は誰もがするものじゃないし、蓋然性としてはとても低い」
「じゃあキミはどうなのさ」
「俺か? そんなのわかっているだろう。俺は失敗作だよ。大抵の人間がそうであるように、そもそも生まれてきたときから失敗だったんだ。だからリアルから逃げ出してこんなことをやっている」
「そうかな」
「そうだとも」
男はリアルにいたころの自分を少しだけ思い浮かべて、そしてやめた。
「私はそうは思わないよ。私は人間の能力を高く評価する。あの子がリアルの星空に思いを馳せたように、人間の想像力というのは素晴らしいものなんだとね。例えばそう、星座くらいはキミでも知っているよね?」
「――それが?」
カナヅチは続けた。
「さっきの三角形のうちのプロキオンという星と、三角形の外のもう一つの星の二つの星を繋いだ直線がある。人間は二つの星で二角形は作れなかったけれど、それでもその直線からこいぬを作ったんだよ。ただの直線が、人間の想像力によってこいぬ座になったんだ。それってすごいことだと、私は思うんだよ」
「ふうん……そんなものかね」
男はもう一度、三角形を見た。その三角形から延びる直線に視線をずらした。あれがこいぬだとは到底思えずに男はふっと噴きだして、まだら模様のポニーテールを揺らした。
「おかしいかい?」
「そうだな、こいぬはどうしてうまれたかと思うとすこし、な」
男はそろそろ行くかと起き上がったが、次の仕事の時間になるまでもう少し時間があることを思い出し、まだ星を眺めていくことにした。
カナヅチはその近くで星明りをその刃に受けながら静かに佇んでいる。
星空は設定どおり、それはきれいに輝き続けた。
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