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『Loneliness』
数日後には退院して慣れないがらも日常が始まった。以前行っていたであろう、サイクルを再開する。
不幸中の幸いか、目立った外傷は特になく、決定的な傷跡も残らなかったので、乙女的には無事で何よりだった。
他人の体を動かしているような感覚は妙に新鮮で、夢を見ているように心を解離させる。
両親とはそれからしばらく口を聴けていない。目が合って、懸命に笑顔を取り繕う姿は、見ていて辛かった。
ここにきて、ようやく失ったものの大きさに気づいた。
記憶の齟齬は私を孤独にした。親しかった人間ほど、私との会話はストレスが大きい。チグハグな会話の毎日に、クラスメイトの目は徐々に逸れていった。
記憶のない私に、関わろうとするものはいない。
なんせ実の親でさえ、認識の範囲ではつい最近出会った他人。距離を置くのも無理はない。自分たちの心にだって整理がつかないのに、私なんかに構えるほうがおかしい。なにも自分から傷つきにくる人なんているはずない。
だから仕方ないことだって、諦めることにした。
でも誰とも話さないなんて生きていないのと同じだ。空っぽの心は結局何にも満たされないまま、取り残されていくことへ恐怖を覚えた。
こうして独り、ようやく覚えて始めた通学路をとぼとぼと歩くだけの毎日が意味もなく過ぎていく。
だからいま、目の前に立つ少女が誰なのか、咄嗟に判断することができなかった。
「えっと……あの、誰でしたっけ?」
溜めいていた息をどうにか言葉にして、やっぱり後悔した。先日拝たクラス写真を頭に浮かべるが、めぼしい人物はない。とすると、クラス替え以前の友人だろうか。
入院中は面会謝絶で、退院もすぐだったから、知り合いの顔は知らない。
「あ、そっか……」
数秒考えこんだ様子で、顔を顰めていた少女だったが、得心がついたようだ。逡巡のあとに、照れくさそうに笑う。
「はじめまして……になるかなっ、私は紫崎アイ。えっと、ミドリとは昔からの幼馴染みで……」
前髪を指で絡め取るのは彼女の癖だという。
ミドリ、という単語が自分の名前を指すことに数秒要した。名前で呼ばれるのなんて何日ぶりだろう。
深々とお辞儀する律儀さに、少なからずどぎまぎしてしまう。
ほんのりと血色の良い頬を薄茜で満たし口元を緩ませるアイは、以前私の親友だったそうだ。残念ながら彼女のことも当然さっぱりで、こうして会話するのが微妙に辛い。
「……ごめん、まだ顔と名前が一致しなくて」
「そっか……。でもっ、これからまた仲良くしていけばいいよ、お互いに」
落胆をすぐに繕って微笑んだ眼をズルいと思ってしまうのはいけないことなのだろうか。
「ほんとうにゴメン……」
零れた自嘲を少女はどう受け取ったのか、慰めるように声を慌てた。
「あわわっ、べ、別にそういうのじゃなくてっ。ただミドリが元気ならそれでいい? ていうか。まあ、その……と、とにかく、ミドリは今のミドリでいいんだよ」
「え、あ、そうだね……」
なんだろう、天使かなこの子。抱き締めたい。
今のミドリ。言葉にひとつに一瞬だけ救われた気持ちになってしまう自分がツラい。
「ありがとう」
素直にでた感謝の意は、けれど内に棘を撒いた。
「ううん、いいの。それより、迷惑だった?」
「どうして?」
「だって、……」
黒くて大きな目が胸に刺さる。
星空みたいな瞳だった。気を抜けばその闇に呑まれそうなほどの、澄んだ色。どうせなら、その闇に呑まれてしまいたい。
「大丈夫、全然迷惑じゃないよ」
かつての親友に。かつてしていた笑顔で。応える。
ぱっと顔を明からげるアイに少しだけ目が眩んだ。
その目は親切? それとも憐み?
問い質したい喉を抑えて目先の幸福を掴む。変な気持ち。嬉しくて、苦しい。
だって、無言の圧力はこんなにも、胸を押し潰していくんだもの。優しさなんてもの、偽善でしかないのにね。
「ところで、こんなところでなに見てたの?」
「うん。きれいな川だなって」
「あー、この川——よくミドリと泳ぎにいってたなぁ」
懐かしいなぁ。らんらんと前を歩く彼女の言葉に脚が止まってしまう。意外と私は活発だったのだろうか。片耳だけのイヤフォンから、ノイズが漏れ出した。おかしいな、電源ならさっき切ったのに。
「どうしたの?」
不審に感じたアイが上目がちにこちらを見つめてくる。同年の少女から目をそらして、かぶりを振った。
「――なんでも」
ない、と吐いた語尾はとても不機嫌だった。
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