『I'm lover』

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『I'm lover』

 不意に、病院で目覚めた日のことを思い出す。  あの日から私の人生は変わってしまった。それまでの何もかもが白紙になって、それでも私だったものに焦がれる毎日。  もしあの時、目を醒まさずに永遠、眠り姫のように無力に死んでいたらどんなに楽だったろうと今でも時々、考えることがある。 「ミードリっ」  聞き慣れ始めた声が、耳朶(みみたぶ)を揺する。夢心地の眼を瞬いて顎先を上げると、桃色の肌に冷たさが奔って浮ついた目蓋をおっ(ぴら)いた。  授業はすべて終っていた。無人になった教室にはアイと私の二人だけだ。 「一緒に帰ろ」  鏡みたいな眩しさで少女はにっこりと笑う。無言の返事は肯定を指すのだろうか。笑い返してみても皺のよった笑いは引きつっている。  半月が経った。クラスの違うアイは毎日のように教室へきて、二人でお昼を食べ、一緒に帰宅する。きっとこれは、彼女たちのサイクルなのだ。アイと百川ミドリの。  そう思った直後は裏腹。アイはただ笑っているだけなのに。見る度に胸が腫れる。  酔っているのだろうか。眠りに、現実に、そうして自分に。  会話だっていつもアイが話しているのに頷いているだけだ。  何か言おうとしても、話せる話題なんかない。空気がほんの少し掠れるだけだった。無理矢理に唾液を呑み込んで素面をきる。  アイにとっての日常が私と同義ではないことに苛立ち、それが欲しすぎてくらくらする。  無意識に逸れた窓は夕焼けに埋まっていた。  グラウンドで汗を流す同級生たちを尻目に四つの足音がこつこつと鳴る。  蓬川に沿ったランニングコースでは、父親らしき人が女の子を背負っている。遊んだ帰りなのか疲れ切って眠っている少女の寝顔は満足気だ。  起こさないように負ぶるその姿に、胸焼けを覚えた。  この前まで薄紅を纏っていた並木は、すっかり花びらを散らして、来年の訪れを温めていた。代わりに橋の上から見える桜花の水面は、とても淡く美しい。 「……」  項垂(うなだ)れるように、()り《こ》込んで感じるさみしさ。心でも視透けてるのだろうか。穴の空いた胸はどれだけものを詰め込んでも器から溢れてしまう。 「元気ない?」 「そういうわけじゃないけど……」  その先がでない。浮かんできた言葉は酷く曖昧で輪郭を掴めない。悩みごとなんてひとつしかないくせに。自分で自分を偽る術を私はまだ知らない。 「中間テスト、どうだった?」 「ぼちぼちかなっ、アイは?」 「ふふん、バッチリ」  梅雨の予感を漂わせる白い絨毯を背にふたりして笑う。何気ないその時間が楽しいのは一瞬。空回りのことばは辛いだけだった。 「ミドリは昔から何事もそつなくこなすからね。ほんと、うらやましいなあ」  無意識に出た言葉だったのだろう。悪気がないのはわかっている。でも、それらは全て私を責め立てるトゲなんだ。 「はは……そんなことないよ」  正直、ピンとこなかった。私はそんなに万能だったのか。もしかすると、私はそこそこ秀才だったかもしれない。といってもこれは、記憶をなくすまえの私なので、いまの私がかつてと同じであるとは限らないのだが。 「でも知識や身体機能を司る器官は記憶の器官とは全くの別物だから、記憶喪失関係なくミドリはすごいんだよっ」 「へ、へえ……」  くりっとした瞼が近づけられる。汚れなど一切ない、綺麗な瞳。思考が遠くなる。 「どうしたの?」  顔の前で手を振られ、自分がぼんやりしていたことに初めて気付いた。瞳を覗き込んでくるアイの、紫を帯びた漆黒に意識が吸い込まれる。彼女は「もうっ」と口をすぼめた。 「そんなんじゃ、またあんなことになっちゃうよっ」 「え、ああ、うん……気をつける」  あんなこと、とはおそらく事故のことだろう。心配性でもないのに、律儀なことだ。まったく、とぷんすか顔を膨らませて、めっとした表情の少女に軽く苦笑しながら、話を流す。 「………もう、最近ミドリは変だよ。まったく……」  私にとっては、最近しかないけど。きっとまえの私は、明るく気さくで悩みごとなんてなかったんだろうな。そんなことを思案していた矢先、思ってもみない言葉が跳んできた。 「ミドリらしくない(、、、、、、、、)」  不意に、ほんとうに突然。肩の力が抜けた。茫然とどこを視るわけでもなく、視界がズレる。掌を溢れた鞄がアスファルトに墜ちる。鈍い音が口火を切った。 「だまって」  口ごもるような囁き。キツく、苛立ちの籠もった喉が震える。ああ、やってしまった。  振り向いて少女は一瞬、私が何を言ったのかわからないといった表情だった。そのことが腹立たしくて、語尾が濁る。押し込めていた感情(かやく)が破裂する。 「……もう、だまって」  劣等感、孤独、ジレンマ——淋しい。堰き止めていた感情がなだれる。  出会ってから延々、話の大半は私のことだった。勉強が得意だとか、スポーツが上手いとか。中学の花火大会とか。そんな他愛のないことをべらべらと。  その時の表情はとてもきらきらしていて、唇を噛むわたしのことなど見てもいない。  きっと彼女のなかでは、今の私も、親友の『百川ミドリ』の延長なんだ。  胸が押しつぶされそうになる。油断すれば、きっと泣いてしまうだろう。  微かに目を瞑って、また()ぐにまたたく。  すうっと。嗚咽を殺すように息を吸った。 「――ミド」 「ねぇ、アイ」  ビクッと小さな肩がふるえる。罪悪と不快が綯い交ぜになった言葉を舌で回し、奥歯をかみ伏せた。 「アイ、私ってさ」  ドス黒い感情が胸から湧き上がる。ずっと我慢していたものが決壊して、後から後から押し寄せて来る。 「どうしたの、……らしくないよ……?」  らしくない。言葉の意味がひどく滑稽で、鼻であしらう。 「らしくないって、……なに? ねえ、アイ——私らしいってなに?」  聞こえない程度の舌打ちを吐いて、唇を引き結んだ。声がわなないて、震える。最大限口調を和らげたのはせめてもの礼儀だ。掠れた声から逃れるように目を伏せた。そこで涙腺は限界値に達した。 「だって、つらいだけじゃん、こんなの……」  自分ひとりだけ取り残されたまま、延々と知らない自分(だれか)を聞かされる。そんなもの、拷問以外の何ものでもない。  まるで『いまのお前は偽物だ』と言われているのと同義だった。ぼたぼたと情けなく雫が落ちる。  だって、私にとって彼女はどこまでも他人で。知らない誰かなのだ。多少時間を要したところで、その事実は変わらない。  私はいったい誰なの?  ずっと押し殺していた、けれどもう耐えられない問いが後から嗚咽と涙を溢れさす。こんな自分が嫌だった。  居場所がない。独りぼっち。誰かに縋って何もかも吐き出してしまいたいのに。甘えたいのに。それさえも赦されない。相手のこともっとわかりたい。お父さんもお母さんのことだって。ああ、やってしまった。でも、もうどうでもよかった。このまま錆びていくくらいなら、いっそ——— 「もう、関わらないで」  せり上がった胃液を呑み下しながら、吠える。吠えて、吠えて吠えて。結局なにも変わらなくて、変えられなくて。嗚咽の混じった別れを残して。踵を返す。唇を解いて、涙に似た雫を振り払う。革靴の鳴る音だけに集中して耳を塞いだ。振り返ることはなく、真っ直ぐに家を目指す。  これで彼女との縁は終わってしまった。私は本当にひとりぼっちになる。  でも同時に、それでいいと思った。延々と誰かを求められるのはもう限界だった。  けれど、二の腕を触れた柔らかい指がそれを制した。振り払おうとしたが、思ったよりも強い力に逆にあっけなく体が傾いてしまう。体の向きを180度回転させ、アイのもとへ帰還する。  手のひらに指が絡んだ。行動の意味が分からなくて、咄嗟の判断が沈滞する。  鎖のような暗髪(あんぱつ)とシャンプーの匂いが私の頬に触れた。  そして私の唇に。  瞬間、甘さが広がった。湿り気のある柔和な紅玉(ルビー)。香水なんて知らない果実みたいな香りが、舌を痺れさせた。息をするのさえ苦しくなるくらい優しい吐息を奏でる。   反射的に抵抗した。だが振り解こうにも、抱きつくように密着された状態では叶わなかった。ただ流されるがままに、愛されるがままに。温かみのある天使の羽根が、這うように唇を吸い付いて来る。  何時間経っただろうか。いや、おそらく何秒の世界だ。なのに、弾けそうなほどの揺れ動く瞼や吐息。寄り添った異なる二つの体温が、刹那に私から時間を忘れさせた。  言葉にならなかった。なるわけがなかった。  触れたことのないくちびるの感触が、離れていく。口の先、再び体温が走る。さっきとは違う細い指の冷たさとともに、まどろんだ瞳が見つめ返してくる。  意味がわからなかった。ただ、柔らかい感触に塗り潰された。握られたままの別の誰かの体温は、背伸びがちの汗を滲ませる。 「……え」 「もうがまんできないよぅ」  どうして。そんな顔をするの。まるで裏切られたみたいな、それでもなにかに切望する漆目。散った涙の花弁は春よりも早く消えていく。  同じ世界にいたのに、同じ場所に生きているのに、私たちの距離はあまりにも遠い。 「私たちね、恋人だったの」
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