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『Melancholy』
ずぶ濡れの心を洗い流す方法はないのだろうか。
強すぎるシャンプーの香りがクラクラする。シャワーの雨に打たれるとどうしても悲嘆な考えに惹かれてしまう。
ばっしゃーんという水しぶきののちに一気に頭までお風呂に浸かる。体を蹲めて無気力に沈んでいく。
イルカの祖先が陸を嫌ったように、嫌なこと全部置き去りにしてのぼせたい。あるいは、生まれる以前の、母親の子宮に帰ったような心地よさを知りたい。
水はすべてを遮断してくれる。音も光もいまはいらない。こぽこぽと鳴っていく泡に別れを告げて鉛のように堕ちていく。
——温い。
ぽちゃん。浮力に負けた眼球が茫然と淡い照明を見つめ返した。靄が張り付いてよくみえない。重くなった髪は、誰かから後ろへ引っ張られるように拘束めいている。
勢いのない起き上がりに、水を吸った髪がちょろろと滴った。
目を落とせば、ネイビーに着霜された水面から目が覗いている。曇ったガラス瓶みたいな色のない目。
「—————っ」
かき消すように湯を出た。きっかり30分、心まで温めるには早すぎるだろうか。
頭のなかの低気圧はそう簡単に晴れてはくれない。服の好みも、大きさも、化粧水の良し悪しだって全然違うのに。
思ったよりも髪が濡れている。2枚目のタオルに手を伸ばし、じんわり続く湯気の名残に違和感を覚えながら浴室を出る。
廊下に出てすぐ脇の階段まで足を伸ばす。後ろから聞こえる引き戸の閉まる音が僅かながら思考を右に逸らした。
「———ミドリ……」
伸ばしかけていた足が自然と振り返る。なぜ———、という内心の驚嘆を気分が打ち消した。久しぶりに聞いた父親の声がタオル掛けにかかる。
縁の薄い眼鏡から覗く人の良さそうな笑い皺。本来ならば、気さくに話しかけてくるだろう細い瞳は誤魔化すような微笑で潰れている。
「……な、んですか?」
……間が悪い。よそよそしさを隠しきれていない喉にすいばりが刺さる。憂いをタオルの陰に潜めて、顔を向けず答えた。
「いや、その——だな」
父は茶化したような表情を変えないまま困ったように頭をかく。歯切れが悪そうに娘の目を伺う。
「すこし、学校を休んでみないかな」
面と向かって話すのは何日ぶりだろう。取り繕った眼を見て、ああ、この人の娘なんだなぁって思えた。
「一度遠くへ行ってみよう。家族みんなで——雅樹もいるぞ? 部活も始まる前だから心配はいらない」
こんな私に話しかけるのに相当な忍耐を要しただろう。それはいま、自分の身体の強張りでわかる。
ほんとうに優しい人なんだって実感する。少しずつようやく慣れようとしてくれているのもわかる。でも——
「ごめんなさい。いまはそんな気分じゃない」
今は凍てつくほどにタイミングが悪かった。
明日であれば違った返答ができたかもしれない。
でも今は無理だ。無理なんだ。とてもそんな余裕は、ないんだよ。
「そっか……。うん、いいんだ……」
父――は、明るさを崩さず続けた。40を過ぎた笑顔からは鼻筋からなぞったように皺がある。
咄嗟に視界をタオルで覆い、唇を噛んだ。
それ以上の言葉を持たないミドリは視線を外し階段を上がる。
目もくれず、ぴしゃりと閉めた扉が頬をうったように響いた。
「……………はぁ」
心底疲労した息が漏れた。湯冷めするにはまだ早いはずなのに、体はずっしりと重い。
ベッドにへたり込む。ろくに髪も乾かしていないまま枕へと顔を蹲めた。
ようやく慣れてきた自分の匂いが鼻を押し入る。
――私たちね。恋人だったの。
ああ、今思い出すなよバカ。余計頭がぐっちゃになる。
唇に手を添える。余韻を孕む熱はすべてお風呂に置いてきたはずなのに。
一人歩きした熱はいまだ頭を離れてくれない。
彼女、あの目———。
そこには何が宿っていたのだろう。
いくら思い出を——以前の関係を伝えたところで、それは無意味だ。もう元には戻れない。
そんなこと、アイだって解っていたはずだ。
ならどうして彼女は動いたのか、なにが彼女を突き動かしたのか。
そしてそれは、私が感じたあの感覚と同じものなのか。
私に向けたものではない感情、私を見ていながら限りなくその存在を無視したもの。
けれど不快感は湧かなかった。そればかりか咄嗟、私はアイの熱に反応した。
まるで心臓にひびが入ったのかのような名前のない感覚。
「…………」
呆然と天井を仰ぐ。伸ばした腕が、差し込んだ月明かりをを意味も無く握りつぶす。
知りたい。目に見えない感覚を捕まえて、確かめたい。
一人の少女を突き動かすまでの熱量を。自分も手に入れたい。
———その熱で、溶かされてしまうことも知らないままで。
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