『翼が生えない』

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『翼が生えない』

   ひとが死ぬ高さとは、いったいどのくらいなのだろう。  100メートルから落ちたら死ぬなんてことは言わずもがな、人間が恐怖を感じ始める高さが十三メートル。それを上回ると、ひとは自身の落下想像を止めてしまう。  跳び降り自殺ってのはたいてい、マンションの屋上を選ぶ。  今いるところが15階建てのマンションだから、だいたい45メートル。  今回は確実性を優先したけれど、実際、頭蓋骨を割りたいなら10階程度で充分だ。  経験則で言うと、十五メートルほどの高さではどう足掻いても大怪我で済む。  となると、人が死ぬ高さは、おおよそ20~30メートルということになる。  柵を乗り越えて何分か、そんなことを考えていた。  風が――――、強い。  無造作に揺れる前髪を右手で払いながら、そう、独りごちを呟く。すでに灰化する枝切れ程度の両腕を広げ、すう、と鼻をもたげる。  空を視れば黄昏で、夕陽の茜と蒼が目下の世界を夜に切り替える途中だった。  いずれ見えるであろう、宇宙の星屑を想わせる文明の明かりが、次々と灯されていく。  死ぬ準備はできた。後はただ、飛び立つだけ。  大きく、いまはまだ脚浸(あしつ)けている世界の空気を吸い込む。  なんの意味もない人生だった。たった17年間の――短い、時間だった。  世界では約40秒に一人、自ら命を絶っていると聴く。  彼らはその直前、この景色を目にして何を思うのだろう。身内への愛憎か、休まりへの歓喜か、はたまた後悔か。  数分後には自分もそのなかにカウントされる。  大人たちは僕の行為を蔑むだろう。まだ若い、人生の素晴らしさを知らずに死ぬなんて。そう、敗者に毒吐くのだ。  それが、この世界でいう普通――――常識。  別に、理解されたいワケじゃない。そりゃ常人から視れば、たったの17年間。でも、僕には充分過ぎた。それだけで事足りてしまった。  多くの、多すぎるものを視て、体感し、その度に傷ついた。  いざ跳び降りれば、もの凄く冷静になって、自分の行いを後悔するだろうか。  いや、それはない。  体の『生きなきゃ』という本能的な衝動が、『死にたい』という意志に負けてしまった。もうそれは、蘇ることができない。  結局のところ、世界は残酷だった。僕が唯一救いを求めたアイツは、僕の前から消えてしまった。  酸素が肺に満ちていく―――――。  永いモノローグを終えて、去りゆく老父のように。瞳がゆっくりと、瞬く。  さあ、すべてなかったことにしよう。こんな辛いだけの毎日(じかん)なんて。  もう一度、瞳を閉じる。こんどは二度と開くことはない――――そう思ったのに。  ふと、電源を切ったはずの携帯から着信の振動が揺れた。  無視してもいいはずなのに、反射的に取ってしまった。  アイツからの――――そう、淡い期待を持って。  でも。そんな奇跡は起こらなくて。メールはなんてことのない、サイトの広告だった。  そりゃそうだ、苦笑する。最後の最後に、なに考えてやがる。  バカみたいなため息を吐いて、電源を落とそうとしたとき、画面右の未読メールが一件あることに気が付いた。  どうせまた迷惑メールの類いだろう。今度は期待せず、それでもついでだからと、タップする。  呼吸が止まった。 「―――――――――――――――――あ」  手が震えていた。画面がブレるのが煩わしい。  なんで、なんで今まで気付かなかったんだろう。どうして今まで気付いてあげられなかったんだろう。  件名は無し、内容はたった一行。 『ごめん』。一言だけ、そう書かれている。  途端、無意識に笑いがこみ上げた。  もっと他にあっただろうと、頭の脇から跳んでくるが、聞こえない。  わずか、ひらがな三文字。無機質のゴシック体が重く、重く、のし掛かってくる。  ぷるぷるとスマホの画面が胸を抉る。  その意味を咀嚼しながら、いまさらのように流れてくる感情をなんと形容すればいい。  遠い彼方に縋って。想い出すように(なお)、深く、噛み締める。  差出人の名前は百川ミドリ。  僕らは、恋人(ニセモノ)だった――――
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