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その日は、どうやって過ごしたのかよく覚えていない。気が付いた頃には、終業時間がやってきていて、ゆっくり出てくる朝とは違い、さっさと帰る岡本を見送ってから、社長が気遣うように声を掛けてきた。
「今日のことは、私は気にしてないし、岡本さんも明日には忘れていると思うから、今日はもう帰りなさい。」
葵の目の前のパソコンと、その隣に積まれている書類を見た。今のメンタルで、どう考えても終わらない量だ。
葵は大人しく頷いた。
身支度を整えてから社長に挨拶をして、葵は事務所の裏手に停めていた車に乗り込んだ。
沈んだ気持ちのまま家に帰る気になれず、葵は車を海へと走らせた。
崖の上に整備された駐車場に車を止めて、人気のない崖の上に作られた柵にそっと、体を寄せた。
地平線に、夕日が沈んでいく。オレンジ色の輝きが一瞬強くなり、そして消えていった。瞬きをする毎に、藍色がオレンジ色の輝きを飲み込んでいき、数分で空と海は、夜の衣を纏っていた。
夜風が海を渡って、葵の髪を揺らす。葵は、何も作り出さなかった両手を見下ろした。
幼い頃、父は事故で亡くなった。その後、母は両家の祖父母達に支えられながら葵を育ててくれたが、元々、遅くに出来た子どもだったせいで葵が生まれた頃には両家の祖父母達はかなりの高齢だった。
母を支え、葵を可愛がってくれた祖父母達は一人、一人と亡くなっていき、二十歳の誕生日を祝ってくれた母も、一年前に病気で亡くなった。
一昨日、葵は二十一歳の誕生日を迎えた。家族の居ない誕生日は、ただ、孤独を誘うばかりで、休みだったことを良いことに、その日は一日中泣いて過ごした。
だからこそ、寂しいと思っていたからこそ、不思議な力が得られると思った時の高揚感は強かったのかもしれない。寂しさを、別の何かで補えると思いたかったのかもしれない。
「馬鹿だなぁ」
この寂しさが、別の何かで埋まるはずがない。心に空いた穴は、何をもってしても塞がることはないだろう。
もしかしたら、自分は白昼夢を見たのかもしれない。この世界が嫌だからと、逃避したいという気持ちが夢を見せたのかもしれない。
そんな風に、自分を納得させようと葵は空を見上げた。
瞬く星を見れば、沈んだ気持ちもほんの少しだけ楽になる。だから、星を見たかったのに、葵の目に写ったのは、見たこともないほど大きな目玉だった。
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