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「女なら目立つから、番頭が覚えてんだろう」
十中八九女郎の類だろうが、しかしそうでないとなると市中の家という家の戸を片っ端から叩いて回り、虎の紋紋に覚えはないかと聞いていたかもしれない。
どんな変わり者でも湯屋で脱がないやつはいない。衣の下に隠れた紋紋に覚えがある者を探すには、湯屋の番頭に聞くのが手っ取り早い。
明日、さっそく何軒か湯屋を訪ねて歩くことにして、見廻りに戻るべく真弓と夜一は自身番を出た。今日の六助はめずらしくあまりお喋りではなかったが、話し込んでしまったおかげでずいぶん時間が経っていた。腹も減っている。無性にそばが食いたいと思った。
「いつも悪いなあ」
真弓の後ろから、六助はそう言って左蔵の腕に支えられながらゆっくりゆっくり出てきた。
六助は足が悪い。悪いなりに調子のいいときもあればよくないときもあり、いいときは少しひきずるくらいで済むが、悪いときは立ち上がるのもままならない。
厠に向かって歩く六助たちが通り過ぎようとしたとき、顔をしかめたくなるほどのにおいが鼻の先をかすめた。気づかれぬよう、六助の尻のあたりをちらと見れば、滲みだしたそれが色濃く着物を染めている。夜一も真弓も何も言わなかった。
老いた六助が、排便もままならなくなりつつあることは皆の知るところである。女房が世話に明け暮れ、日に日にやつれていっていることも知っている。
六助はいい大家だ。そんな六助に嫌な態度を取るようなやつはいない。けれど、すこし遠巻きにしたり、口には出さないかわりに目を背けたり、腫物にさわるようにするやつはいる。どうして人は人が老いてゆくのを見るのがこんなにもつらく耐えがたいほど苦しいんだろう。醜悪だと感じるんだろう。行く末は自分も同じなのに。
「お互い様だろ」
年頃の娘のように赤くなって俯く六助の背中を左蔵は撫でて、「俺は平気だから」とにこにこした。
左蔵の言葉に嘘がないことを真弓は知っている。左蔵は本当の本当に「平気」なのだ。
自身番のなかでそれの異臭に気がついたとき、真弓はとっさに動くことができなかった。声が出なかった。気づいていないふりをした。手前の親でさえ、下の世話をするのはためらうのに、赤の他人の世話などできる気がしない。やれと言われればやるだろうが、やらずに済むならそれに越したことはない。できるものなら避けたい。
左蔵が言い出したときは心底ほっとした。ほっとして、なんだかまた自分のことがとても嫌になってしまった。楓川で、当たり前に指図しているだけの自分に気がついたときのように。
言い出したのも、左蔵の場合に限っては、べつに腹の中で算盤をはじいた結果ではないのだ。にごりのない良心などというものがもしも、もしも本当にこの世にあるとすれば、それはきっとばかでのろまな左蔵の心の内にある。
大きな左蔵と小さな六助の歩く姿を見て、まるで親子だと真弓は思った。
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