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第四話
湯屋に一歩足を踏み入れると、風が湿り、衣がぐんと重さを増した気がした。
黒の前掛けをしたその番頭は、真弓の顔を見るなり「待ってました」とばかりに身を乗り出した。
「六にも話したんだけどよぉ、コソ泥が出て困ってんだよぉ、なんとかしてくれよ」
「とっ捕まったんじゃなかったか」
「その後だ。また出たんだ」
六助とは付き合いが長く、将棋仲間でもある爺は勢い余って落っこちそうになり、慌てて高座の縁を掴んだ。
この湯屋で盗みを働く板の間稼ぎの話は弥彦から聞いていた。ようやっと捕まったと一昨日に聞いたばかりであったが、番頭曰く、それとはまた別の不届者が現れたらしい。
市中には湯屋が数えきれないほどあったが、どうにもこうにも狙われるのはここばかり。板の間稼ぎを引き寄せる香でもたいているのかと思いたくなるが勿論そんな馬鹿なことはない。話はもっと簡単で、賑わう流行りの湯屋だからだ。広く、すみずみまできれいで、湯は熱く気持ちがよい。番頭は江戸一と言う。真弓も気に入っていて何度も足を運んでいる。
今日も今日とて大繁盛で、脱衣場には男も女も小さな子どももわんさかとすし詰めになっていた。衣棚はどこもいっぱいで、籠に入っただけの色とりどりの着物がそこかしこに転がっている有様である。なかには高価そうなものもあるようだ。盗人にとってこれほど有り難いことはない。
「今日はそのことで来たんじゃねぇんだよ」
「ああ、なんだい」
とたんにつまらなさそうな顔をして、高座の中へと引っ込んだ。右の手で子どもの手を引き、大事そうに唐草の風呂敷包みを抱え込んだおかみさんが困った顔で立ち尽くしているのに気がつくと、途端ににっこりとして「いらっしゃい」と愛想をまいた。
湯銭を受け取る番頭の下で、後ろに控えた左蔵をちらりと窺う。今日の共は左蔵だけで、夜一は遊里のほうへで弥彦らを手伝っていた。
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