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「――虎の紋紋が入った女に覚えはないか。こいつとまったく同じのだ」
きょろきょろ見渡す大男の脇を肘でつつくと、慌てふためき左蔵は肩を出し、背中の虎を番頭に見せた。その横顔は少し誇らしげである。
思えば、左蔵がそれらしい仕事をするのは今日が初めてかもしれない。なにせちょっと見ないくらいには鈍くさいので、まかせていたのは身の回りの世話や、その図体の大きさと馬鹿力が役に立つ捕り物、用心棒代わりの見廻りの供くらいのものであった。市中の探索などはもっぱら夜一の領分で、それも際立って話を聞きだすのがうまいので、わざわざ左蔵にまかせる必要もなかった。
番頭は紋紋を見て、首をひねり、やがて「いんや」とゆるゆる首を振ってみせる。そうしてすぐに次から次へとやってくる客へ笑顔をまきはじめるので、真弓は苛立って声を荒げた。
「よく見てみろよ」
「いんや」
「もっとちゃんと――」
「虎の紋紋の女でしょう? 一回見りゃ忘れねぇよ」
眉を八の字にしてゆるゆると首を振る。番頭の言うことももっともである。紋紋の入った者などそこらじゅうにいるし、ごった返しているとはいえ、女となればまぁ忘れないだろう。印象も強い。虎だろうが猫だろうがあれだけ大きな彫り物であればしっかりと覚えているはずだ。ともすれば番頭のほうから物珍しさに声を掛けたかもしれない。
ただただこの湯屋に件の女が来ていないだけかもしれない。次の店では、ああ、あのひとですね、と言われるかもしれない。けれど幸先の悪さに真弓はがっかりして落胆の色を隠すことができなかった。
「――あっ」
大きな声に振り返ると、狐目の男がぽかんと丸く口を開けてつっ立っていた。
顔つきは幼いが、肌の感じを見ると歳は自分とそう変わらないだろう。髪は濡れ、首にかけた手拭いもじっとりと湿っていて、今しがた風呂から上がったばかりらしい。
左蔵の紋紋をまじまじ見て、怒ったような顔をしたかと思いきや、今度は少し悲しそうに肩を落とした。見覚えがあるのか尋ねようとして、
「お前――」
「ちょっと、あんた、早く行くよ!」
威勢のいい女の声が外から飛んでくると、狐目は怯えたようにぱちぱち素早く瞬いた。見れば、ふにゃふにゃとぐずる赤子を抱えたお内儀が口をへの字に曲げて待っている。
最後にまたちらりと左蔵の方を見て、けれどやっぱり何も言わず、少し頭を下げてから出て行った。
呼び止める間もなく消えゆく男の背中へ、伸ばした手が行き場をなくして虚しく空を切る。
「ああ、甚か」
甚平です、と番頭は男を見送りながら言った。
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