第四話

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「通りの向かいにでっかい呉服屋がありますでしょ。そこの跡取りです。どら息子の馬鹿息子。馬鹿すぎて憎めねぇ。大旦那はできたひとなんだがなぁ、三代で潰すってぇけど、あそこは二代までだな」 「女か」 「女もそうだが手に負えねぇのは博打のほうだ」番頭は誰に聞かれるわけでもなしに左右を見て、口を隠すようにしなから声をひそめた。「骨の髄から賽子が好きでなぁ。盗人にあがりをまるっと盗まれたーなんて騒いでたが、あいつがちょろまかしたんじゃねぇかな。負け分にあてて。ま、あそこはかみさんがしっかりしてそうだから、なんとかなるか」  たしかに、肝っ玉の据わっていそうな女であった。甚平がどれほどの馬鹿息子か知らないが、あの嫁が目を光らせている限り、店が傾くようなまねはしないのではなかろうか。  呉服屋の行く末はともかく、跡取り息子のあの反応は気にかかる。見覚えがあるならぜひ話を聞きたい。 「せっかくなので、入っていきますか」  いつまでたっても着物に袖を通さないので、なんのつもりかと思えばそういうことか。左蔵は遠慮がちに、けれど目を輝かせて言った。  おしげもなく真白い肌をさらした女達にどぎまぎする左蔵に呆れつつ、「馬鹿言うんじゃねぇ」と真弓はつっけんどんな調子で返した。 「次行くぞ」 「背中、流します」 「俺の御用聞きはいつから三助になっちまったんだ」 「真弓さんのだけです!」 「お熱いねえ」 「少しだけなら大丈夫ですよ」 「そうだよ旦那、固いこと言わずにさぁ」  ここぞとばかりに便乗する番頭と左蔵に「固くねぇよ」と言い返す。 「さっさと――」  さっさと行くぞ、と三助もどきを急かそうとしたときであった。脱衣場から出てきた男と肩がぶつかりかけ、身体を斜めにずらした拍子に、ほっかむりにしたその男の胸のあたりがやけに気になった。二度見すると歪に膨らんでいる。あれ、とよく目を凝らすと襦袢のようなうすっぺらの桃色が見えた。  高座の脇をするりと通り過ぎたとき、男の小さな目がうかがうように後ろを向いた。真弓の黒羽織をちらと見て、すぐにあわてるように小走りになる。草履もろくすっぽ履かず、あっちこっちに肩をぶつけて女を押しのけ男を押しのけ、韋駄天走りに逃げ出す男の背中に真弓は大きな声で呼びかけた。 「――っおい! 待ちやがれ!」  待てと言って待つ盗人はいない。のれんをくぐって一目散に湯屋を出て行く男の姿に、追いかけようと真弓が足を踏み出すよりも先に、勢いよく飛び出したのは左蔵のほうだった。  けれどその板の間稼ぎの脚はなかなかに速く、二人の間にはもうかなり距離ができていた。これでは追いつけるか怪しいものだ。まずい。逃してたまるか――後を追って通りに出た真弓は懐の十手を鷲掴みにして、軸足一本から大きく足を踏み出した。男の頭に狙いを定めて振りかぶり、あらん限りの力でぶん投げる。  朱色の房付きがくるくると回りながら飛んで行く。左蔵の頭上を飛び越えて、やがて男の頭にぶつかる――ことは残念ながらなく、惜しいとさえ思わないほど明後日の方向に飛んで消えてしまった。突き刺さる視線が痛かったし、白けた空気が肌を冷やしたし、その癖顔から火が出そうだった。何事にも向き不向きがある、と言い聞かせる。 「お――惜しかったですよ! 真弓さん!」 「うるっせぇな二度と喋るな!」 「二度と!?」 「黙って走れ馬鹿野郎!」 「はい!」  信じられないとでもいうように振り返る左蔵に、恥ずかしさもあり必要以上に怒鳴り散らして、橋を越えようとする男をまっすぐに指差す。  青い顔をした番頭が遅れて出てきたときにはもう、左蔵の手が男の襟首を引っ掴んで道に投げ飛ばそうとしているところであった。ぐるんと宙を一回転した板の間稼ぎはそのまま顔からべたんとたたきつけられ、見ている真弓のほうまで顔をひそめてしまった。左蔵は馬鹿力のくせして加減を知らない。そのことを真弓はよく知っている。身をもって。
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