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ちょいと厠に、と誰にともなく断って、横の親爺をまたぎ乗り越える。
博打の熱気で蒸す部屋を抜け出して、縁側に立つと、さっそくひんやりとした風が頬をさらった。もう秋口である。暑かった夏がようやく終わった。一足先に出ていた男も、厠ではなく涼みたかったのか、少し離れた廊下の端でぼんやりと立っているのが見えた。
――結局、湯屋を回ってもこれといった話は聞くことができなかった。
なんとなく物言いたげな顔をする者はいるのだが、奥歯に物が挟まったような言い方をするばかりで、さぁ、で終わってしまう。さぁ、どうもすみませんね、お役に立てませんで――。
これは楓川で死んだ女の背中に入っていた紋紋だ、とは言っていない。役人が嗅ぎ回っている時点で厄介ごとであるのは間違いない。関わりたくない気持ちもわかるが、それにしたって妙だった。
妙だったのは狐目の馬鹿息子と、老いた母親を連れた高利貸しの男に、上等な着物を纏った小男。歳も風体もばらばら。食い扶持に困っているような者はおらず、皆懐が温かそうであったところは羨ましい限りである。
日を改めて、それぞれの家に行き話を聞こうとしても、答えはやっぱりうやむやなままだった。吉原のほうはどうかというとやはり成果はなく、ますます謎が深まるばかりである。
あの女は一体何者なのか。心中なのか、殺されたのか、入水なのか。誰にも探されず、人知れず川に沈んでいった女は最後に何を見て、何を思ったのか。川の水は冷たかったか。生ぬるかっただろうか。
懐手でぼんやり思案していると、かたかた音を立てて襖が開いた。
出てきたのはしょんぼりと肩を落とした男で、顔を見ればさきほど巾着袋を覗いていたやつである。勝負に負けたのかわかりやすく落ち込んでいる。
「よう。甚平」
俺のこと覚えてるかい、と言うと、男は真弓を見て怪訝な顔をしたが、やがて狐目を見開きみるみる青くなって行く。ちゃんと覚えていたらしい。
大慌てで逃げ出そうとする甚平の襟首をむんずとひっ摑んだのは、先に出ていた夜一の細長い手であった。にっこり微笑みかける色男に捕まり、ひぃすみません、と悲鳴を上げて立ち止まる。
「しょっ引くつもりなんかねぇよ。今日のことはここだけの話だ。そうだろ?」
「そ、そうして頂けると……」
「おっかねぇかみさんと親父殿に知れたら大変だ」
騒ぎを聞きつけて皆が集まってくる前に、こそこそと廊下の隅に寄る。
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