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心中あらため相対死──要は恋仲のふたりがともに命を絶つことだが、これがまさしく流行り病と言ってよいほど大流行りしていた。
きっかけは紙屋主人と遊女の心中を描いた浄瑠璃。これが上演されるや否やとんでもないことになってしまった。今生に見切りをつけ、あの世で結ばれようとする男女がわんさか出てきてしまったので、江戸の役人たちも頭をすっかり抱えていたところであった。
そういうわけなので、連れ合いのいない屍は久しぶりだった。
組屋敷から少し歩いたところを流れるここ楓川では、あまり聞くことはないものの、溺死自体はさほど珍しいものでもない。
酔っ払いが足を滑らせ落っこちたり、雨の日は増水した川に流されたり、理由はさまざまだが、多くも少なくもない頻度で土左衛門と出くわす。
しかしこの土左衛門、そういったただ運のない者たちとは訳が違うと見える。身投げと言ったのは当てずっぽうではなく、女がいかにもな死装束を着ていたからだった。
「一郎太、お前、観に行ったのか」
「心中天網島ですか」
「ああ。いやぁ、なかなかよかったぜ。俺も最後は涙ぐんじまった」
「旦那は涙もろいからなぁ。どうせお涙頂戴のくだらねぇ話でしょう。シラけて舟漕いじまうのが目に見えてる」
「おいおい! そりゃちょいと聞き捨てならねぇなあ──」
「てめぇら無駄話しに来たんなら帰れ。もういい。あとは全部俺がやる」
土左衛門の傍で、身振り手振りを交えて盛り上がる弥彦と一郎太を一喝し、野良犬を追い払うように真弓は手を振った。二人とも気の良いやつらなのだが、少々おっとりぼんやりしたところがあり、どうにもこうにも締まりがない。すぐに気を抜いてだらーっとしてしまう。
子どものように背の低い一郎太は弥彦の小者で、言ってみれば舎弟のようなものだが、物言いはあけすけだ。仲が良いのは結構。しかし市井に「お役人さまは、なんだこんなもんか」となめられ笑われるのは頂けない情けない。
「働き者だねぇ。なんでも手前だけで抱え込んじまうのはよくねぇよ」
「余計なお世話だ」
「おい、なんだこれ」
一郎太の素っ頓狂な声が聞こえてきたので、真弓と弥彦は顔を見合わせた。
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