第六話

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 ■■ 「左蔵が拗ねていましたよ。置いていかれて」  別れ際に夜一は言い、真弓が何か答える前に戸の向こうへ消えてしまった。寅の刻のことである。  賭場を出る頃には真弓も夜一もぐったりしていた。賽子を見る男達の暗い熱気に当てられていたし、なによりも、頭を占めていたのは甚平の話である。糞づまって遅々として進まなかった紋紋の女――名もおよしということがようやくわかった――の件が、これで一気に進みそうだという興奮。同時に、何か引っかかるような、もやもやとした霧が新たに出てきたような感覚もあった。  頭の中がぐつぐつと煮立って疲れと眠気で立っているのがやっとである。一刻も早く床につきたかった。夜一も同じ気持ちだったのだろう。  這々の体で家に帰り、畳の上に身を投げ出す。布団を敷く気力もない。  倒れ込んで瞼を閉じると、すぐに意識が遠のいた。  深く深く沈み込んでいた眠りの中から、真弓を引き上げたのは乱雑な足音だった。続けて、凄まじい怒鳴り声が響き渡り、真弓は勢いよく飛び起きた。この家には自分ひとりしかいないのだ。  外はまだ薄暗い。日は昇っていない。眠りについてからまだわずかしか経っていないようだった。  枕元の刀を掴んで立ち上がる。騒がしいのはどうやら表の座敷のほうだと走り向かうと、いよいよ声は大きくなってきた。聞こえてくるのは二人の男の声で、ひとつは聞き覚えのあるものである。 「左蔵!」  てめぇとか、やめろとか、この野郎とか、穏やかでない言葉の応酬が続いて真弓の声が耳に届いているのかどうかはわからない。なぜ左蔵がこんな遅くにここへ、ということはひとまず置いておく。それどころでははない。  慌てつつ一呼吸置き、座敷に続く戸を開けようとして、 「一体何事――」 「出て来るな!」  空気が震えるような強い左蔵の声にびくりとして立ち竦む。長い付き合いのなかで聞いたこともないような声音である。まして左蔵が真弓に向かってこんな乱暴な言い方をすることはない。  尋常じゃない。なにか、なにかはわからないがなにかが今まさに向こうで起こっている。このままここに突っ立っていていいはずかない。 「……っ!」  思い切って開け放った戸の先は、何から何までしっちゃかめっちゃかであった。襖は倒され、床の間の掛軸は落ち、壺は元の形がわからないほど粉々になっている。貰い物で真弓には価値がわからないが、けして二足三文のものではないだろう。
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