(12)ポラリスリゾーツ

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(12)ポラリスリゾーツ

 シロウは、究太に頼まれて急遽夜警の代行をしていた。すぐに戻ると言いながら、既に二時間を経過している。バーテン仕事を任されるようになって、朝の仕事の割り当てが無い為、急いで戻る必要は無かったし、社員寮へ戻っても一人である。風呂に入って寝るだけなのだから、特別急ぐ必要も無い、と、予約状況の確認をしながら、シロウは事務室で究太が戻ってくるのを待っていた。  フロントへのコールも無く、直接トラブルを申し出る者も無い。三時を過ぎたあたりで一度見回りに出て、何も無ければ仮眠を取る事もできる。いっそこのまま究太が戻って来なくても、見回りに出てしまおうかとすら思っていた。  ラウンジの酒類の在庫と、予約状況を突き合わせながら、追加発注の必要なものは無いかと頭を巡らせる。永戸屋での日々は楽しく、可能ならばこのままここで働き続けたいとすら思っていた。……しかし。  インターネットへ接続可能なパソコン席へ移動し、ブラウザを開く。それは、世間一般で使用されているものとは異なったブラウザで、プログラムファイルやデスクトップにはショートカットすら出されていない。コマンドプロンプトを立ち上げた状態で、VPN接続をしてから繋げる特殊なものだった。ブラウザのウインドウの中にあるメッセンジャー経由で溜まっているメッセージを確認した。新規問い合わせは無し。特別な連絡は無いようだった。ふいに、オンラインになる事を待ち構えていたようにメッセージが入った。アバターともいえるアイコンは『マシマ』とあった。 マシマ『いい加減返事してください』 シン『起きてたのか、こんな時間に』 マシマ『待ってたんですよ!!」 シン『俺このままここにいちゃダメかな』 マシマ『何をまた……本来の目的を忘れないで下さい、先に送っといた方見てくれましたか? 決済溜まってるんですから』 シン『今からやる』  シロウは一旦新規のタブを開き、溜まりに溜まった未決済状態の稟議に目を通し始めた。開いているのは『ポラリスリゾーツネット』端末を認証させ、さらに専用のID・パスワードでVPN接続をさせてからでないと繋ぐ事ができないサイトだ。  シロウの記憶喪失は最初は嘘では無かった。途中から、湯崎館の世話になり、永戸屋に来たあたりで思いだし、そのまま黙っているというだけで。  ポラリスリゾーツは元々首都圏を商圏としたアミューズメント系サービスをメインに運営していた会社だ。引退間近の会長が道楽で購入したホテルを修復して営業を開始したところ、低価格路線が受けて大きな利益を生んでしまい、道楽が道楽で終わらなくなってしまった。シロウはポラリスリゾーツ副社長、砥炉喜温泉へは買収の話があって来た。歴史好きゆえに城跡と聞けば見に行かずにはいられない性分ゆえに、しばらく長逗留する事に決めて、岩見山山中のロッジを購入し、そこを拠点に一人で散策していたところで、滑落した。一時的な記憶の混乱は、その時のシロウの精神状態のせいもあったのかもしれない。元々、姉が社長、自身は副社長という状況にあり、長男である自分がグループを率いなくてはならないという周囲からのプレッシャーと、出来野良い姉へのコンプレックスなども手伝って、『逃げたい』という思いがどこかにあったようだ。重責から逃れて、気ままに好きな事をしていたいという思いが作用したのか、美しい緑の木々が癒やしと共に一時的に忘れさせたのか、シロウは本来の自分の立場でもあるポラリスリゾーツ副社長、遊佐慎夜という名前を手放し、根無し草のシロウという男になった。  シロウでいる時間は、とても心地が良かった。もちろんそれは究太と路実という善意の第三者からの救いがあったこそではあったが。びくつきながら決済を求めてくる部下も居ないし、隙あらば揚げ足をとってやろうとする姉の部下も居ない。玉の輿を狙ってまとわりつく独身の女性スタッフからも、前社長の息子というだけで要職に居る事を好ましく思っていない古参の社員も居ない世界。副社長になるまで、慎夜は気楽だった。傘下のホテルでスタッフとして働いていた日々。狭い世界の中で心を許せる仲間と協力する。悪意を持って立場を奪おうとする人間の居ない世界。  永戸屋は、みさきホテルに似てるな。  そう思ったのがきっかけだった。潮の香り、海に近い灯台の見えるみさきホテルはかつての慎夜の職場だった。山奥の温泉郷である砥炉喜温泉永戸屋。景色は違うが、アットホームな雰囲気が似ていた。みさきホテルの懐かしい日々を、永戸屋で働くうちに思い出した。しかし、慎夜はすぐにそれを言わなかった。全てを思い出した慎夜は砥炉喜温泉にやって来た理由をすぐに語るわけにいかなかったからだ。  永戸屋と湯崎館、湯崎館はともかくとして、永戸屋が青息吐息だという事は、地元の銀行に情報照会するまでも無く明らかだった。すでに近隣の迷楼温泉壱彩荘は買収済みで、別館の建築も計画されている。大型のホテル、鶺鴒閣のように、客室数の多いところは、ファミリー向けとしてノウハウができつつあったが、壱彩荘のように風情のある老舗温泉旅館については再生ノウハウを持たずにいたが、今それは徐々に結果を出しつつある。永戸屋は壱彩荘と歴史も規模も近い。歴史に関してで有れば平安時代まで遡れる迷楼温泉に比べれば日は浅いが、戦国時代以降整備された砥炉喜温泉も、充分歴史ある温泉としての風格は持っている。武将縁の温泉、近くには城跡もある。地域そのものの魅力はポテンシャルを秘めていて、大規模な開発の手を入れなくても、プロモーションだけで伸びるところは沢山残されていた。  シロウとして、永戸屋に入り込む事ができた事は好都合と言えた。それは単に、このままシロウとして残り続けたいという、慎夜の望みでもあったのだが……。  隙を見て真島と連絡を取り始めてからも、慎夜は永戸屋を離れがたく、理由を付けて残っていた。真相を明かすのが遅れれば遅れるほど、究太と路実を怒らせるかもしれないと思いながら、言い出せないでいるのは、一度言ったら最後、もうこの場所に残る事ができない事がわかっているからだった。ここを離れると決めた時か、二人に正体を気づかれた時が別れの時だという事は理解していた。そして、その瞬間が少しでも先に伸ばせるよう、慎夜は隠す事に決めていた。  いくつかの嘘は慎夜の良心を咎めていたが、中でも一番大きな嘘は夢の事を偽った事だ。夢を見た事は嘘では無い。ただし、夢を見た時期は偽りだった。慎夜が路実に言った『夢』を初めて見たのは、湯崎館で過ごした最初の晩だった。  炎の中で、自分の上で乱れ、狂う美女、その顔が会ったばかりの路実だった。罪悪感と共に、どうしてそんな夢を見たのかとも思った。路実は美人ではあるが、恩人であり、究太の恋人だろうというのはすぐにわかった。記憶が戻る前は、遠慮もあったし、そんな余裕は無かったし、記憶が戻ってからは、罪悪感以上の感情はわかなかった。いわゆる御曹司の慎夜はそこそこ金もあり、学歴もある。容貌もそれほど悪い方では無い。ゆえに黙っていても女が近寄ってくるという意味で自分からいくことはなかったが、全く恋愛をしたわけでも無い。己の過去の恋愛遍歴を顧みて、路実のようなタイプに惹かれた記憶は無い。慎夜は女からあれこれ注文を付けられるのもわがままな女に振り回される事も好まない。路実は頭は悪く無いのだろうがそれだけに才走ったところが鼻について一緒に仕事をする分にはいいが恋愛の対象にはならない。だが、好みでは無い路実の夢を何故繰り返し見るのだろう。  無意識に惹かれているのかとも思っても、一緒にいて特別な感情を感じる事は無いし、最近は夢に見ても、ラッキーというより罪悪感しか無い。  永戸屋の買収をもくろむゆえのメタファーだろうか、と、思っても、だとしたら組み伏せられているのはおかしくは無いだろうか。  究太に夢の事を知られて、実は少しほっとしていた。慎夜にとってシロウとして過ごす永戸屋での日々は一日でも長く務めたいと、真島に協力を依頼し、ポラリスリゾーツ副社長としての仕事をこっそりこなしていた。もうそう長くこんな日々を続ける事はできない。それでも、一日でも正体が発覚する日が遅れて欲しいと。
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