(1)砥炉喜温泉永戸屋

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(1)砥炉喜温泉永戸屋

 砥炉喜温泉、戦国時代、武田の隠し湯とも呼ばれた歴史ある湯治場は、時代の変遷と共に姿を変え、昭和の高度経済成長時代には、大型バスが大量に乗り付け、一大歓楽地と化した名湯であったが、団体客招致による風紀の乱れ、また、その後のバブル崩壊において、成長を見込んで行った設備投資がことごとく裏目に出、不良債権化し、平成に入ってからは斜陽の一途をたどる、今となっては、前時代の、古びた温泉地に成り下がった場所。  かつて、湯守として砥炉喜温泉一の名家とも呼ばれていた湯崎家は、生業である温泉旅館だけでなく、酒造、レジャーと手を広げていたが、元々の商売上手ゆえか、経済危機をギリギリで交わし、かつての栄光と比べれば落ちぶれてはいるが、かろうじて売り抜け、今は何とか高級旅館路線という方向へ切り替えて、老舗温泉旅館・『湯崎館』の矜持を保っていた。  一方、もうひとつの湯守、永戸屋の方は、謹厳実直、公明正大、大きく儲ける事は無いが、反面、大きく損もしないという事で、小さい所帯ながら、泉質の良さと居心地のよいホスピタリティで、大きく売り上げを落とす事も無く、常連相手に手堅い商売を続けてきた。しかし、核家族化が叫ばれて五十数年、以前は親子何代にも渡って贔屓にしてくれていた顧客も、代が変わり、レジャーの過ごし方も変わってきた。年末年始などの繁忙期はマシだが、特に閑散期と呼ばれる二月八月の低迷はもはやどうにもならず、人員確保にも苦労し、まさに問屋制家内工業の、家族総出による自転車操業で何とか繰り回しているという状況だった。  そういう状況なわけだから、跡取り娘である路実も、一応大学までは出させてもらったものの、家へ戻って家業を手伝わされる事は自明なわけで……。  朝、まず行くのは板場だ。料理人である父が朝食の用意に一人忙しく動き回っていた。おはようの挨拶もそこそこに、壁に貼られた客室台帳のコピーで人数を確認する。 「あー、今日も一組……」  永戸屋の客室は全部で四十八室。しかし、平日でもある本日の宿泊客はわずかに一組、たとえば、仮に一組であっても、三世帯で三部屋、豪華還暦ツアーなどではなくて、年配の男女二人で一組。つまり、今朝チェックアウトして精算するのはわずかに二名のみ、という事だ。だいたい、路実は今し方、今日も一組、と声に出して言ったが、昨日フロントでチェックインをしたのは予約電話受付係兼フロント係でもある路実自身だったのだ。その後も、女将である母が客室へ案内した後、夕食の給仕をしたのも路実。路実が夕食の給仕をしている間に客室で布団を敷いたのは母。夜警としてフロントに泊まり込み、あったかどうかはわからないが、ルームサービスの対応やマッサージの手配をしたのも母。  そして、昨晩夕食を振る舞った料理長である父は今、二人の為の朝食を作っている。食事処の立ち上げを母がやり、できあがった朝食を路実が運ぶ。母が『女将』の体裁として着物でがんばっているのだが、チェックアウトの後は客室清掃も行う事から、路実が着ているのは作務衣だった。少し渋めの桜色の作務衣を着て、髪をひとくくりにしていると、某映画のヒロインのようでもあったが、そう思って喜んで作務衣を着て家の手伝いをするようになってから、どれだけの年月が経ったろう。それでも、自分にとってはいつもの一組だったのだとしても、お客様からとっては数少ない癒やしを求めての一日のはずなのだ。  そう考えて、路実は両手で自分の頬をぴしゃりと張った。それは、今は亡き祖母の教えだった。お客様にとって、忘れられない一日を。来て良かったと思えるおもてなしを。そう思わないと、慢心は態度に出る。自分に活を入れてから、食事処のセッティングをしている母の元へ向かった。 -- 「本日はご利用ありがとうございました」  精算を済ませてから、両親と共に二人の客を見送りに出る。今日見送る二人はどちらもプラチナブロンドのようにつややかな白髪のご夫婦で、番いの鳥が戯れ合うような睦まじさで路実達を優しい気持ちにさせてくれた。ご主人は運転する手さばきもあざやかに、帰路には観光をしながら帰るという。日によっては新幹線の駅まで送迎を行う事もあるのだが、今日は不要のようだった。  今回は、母が客室清掃を、路実は大浴場の清掃に入る事になっていた。あまりある事では無かったが、日帰り入浴を受け入れられるように、準備だけはしているのだ。  清掃を終えて、フロント裏の事務所で路実が一息ついていると、同じく清掃を終えて戻ってきた母がやって来た。夜警明けなので、いつもならば仮眠の為に支配人室へ行くところを、インスタントコーヒーを入れたマグカップを路実の座っているデスクに置いた。支配人室という名札がついたままなので『支配人室』と呼んではいるが、永戸屋に支配人と呼ばれる人間は今は居ない。一時期そう呼べる立場の人間は居たが、居なくなって久しい。かといって、女将室と名札を書き換えるのも面倒でそのままになっている。鍵がついている事と、北側にしか窓が無いせいで、日中仮眠をとるのには最適で、ソファーベッドがベッドのままにして置いてあるのと、大きすぎて使い勝手の悪い、やたら重いデスクが一つと、昇降機能の壊れたOAチェアがひとつ置かれ、仮眠室兼物置になっているような部屋だった。 「どーぞ」  母に言われて一瞬路実は目を疑った。 「女将……どしたの」  勤務時間中は母と呼ぶなという厳命に従いつつ、敬語を使う気分で無かった路実が、一応上司である母の普段とは違う行動に驚いて言った。いつもならば、お茶くらい入れなさい、と、文句ばかり言う母が、路実が何も言わずにインスタントコーヒーを入れるとは。もちろん、急須に茶葉を入れてお茶を入れるより、スティックタイプの粉末をマグカップに入れて電気ポットの湯を注ぐ方がずっと楽だから、ではあるが、それすらやらない母が、路実にコーヒーを入れてくれている。残念な事に、ミルクも砂糖も付いてはいないが、路実は日頃からブラックなので問題は無い。 「いらないの? なら私が飲むけど」  母は、接客中とそうでない時のキャラクターに振れ幅がありすぎる。今、路実の目の前にいる母を見て、あの女将だと思う者は少ないだろう。ごく近しい、身内にしか見せない母の素だった。 「いやいや、もらうもらう、ありがとう」  何の気まぐれかはわからないが、これからパソコン仕事をしようと思っていた路実は、ちょうどコーヒーを入れに行こうと思っていたのだ。そういうタイミングをはかって入れてくれるあたり、女将はさすがにプロフェッショナルなのだと思った。  路実が、大学に進学した際、下宿で使っていたシアトル系コーヒーショップのシンボルマークが入った大ぶりのマグカップからコーヒーをすするようにして飲んでいる間に、女将は女将でもう一杯コーヒーを入れてきた。ティースプーンが差し入れられたままになっているあたり、自分の分にはミルクも砂糖も入れたのだろう。  路実は、予約システムの入客状態を見ながら、インターネットでの販売在庫数に頭を悩ませていた。ネット販売をするにも、永戸屋には『これ』という売りが無い。温泉の泉質については、路実はじめ、女将である母も、料理人である父も誇っているところではあるのだが、それを表現するだけの語彙が無い。今時源泉掛け流しだけでは客は呼べないのだ。さらに、客室数こそ四十八室あるが、この客室を全て開ける事はできない。スタッフが足りないのだ。今も、稼働の上がる土日だけは臨時のアルバイトでしのいでいるが、手配可能な人員で動かせるのは半分がせいぜいだ。人員を揃えるには安定した売り上げ予測が必要で、今のままではじりじりと干上がっていくしかないのだった。館内はあちこち老朽化もしていて、修理をするにも金が必要な状況なのだが、銀行に借りるにしても、経営計画は必須で、しかしそれらを考え、まとめあげる能力も時間も無いまま、日々に忙殺されてすでに何年経過しただろう。  せめてインターネットから、平日に安定した集客ができれば……、そう思ってネット販売の管理画面に向かうのだが、売り文句のところで手が止まってしまう。真っ白なテキストエディタの上で点滅するカーソルを恨めしく見つめながら、古いノートパソコンのキーボードの汚れがやけに気になって、エアーダスターに手を伸ばしたところ、女将である母が言った。 「ねえ、路実、あんた結婚する気は無い?」  路実は、驚きのあまり、手にしたエアーダスターのボタンにかけた指に反射的に力を込めた。スプレー缶に満たされていたガスがノズルを通って勢いよく吹き出し、路実のおでこに直撃した。 「冷たっ!!」  突然の冷気に、路実が悲鳴をあげる。 「ばっか、何してんのよ、もう」  あきれて女将が支配人室へタオルをとりに行った。路実は、女将から受け取ったバスタオルで顔を拭いたが、冷気はあったものの、水や氷が突きつけられたわけでは無い。拭きかけてから自分の額が濡れているわけでは無い事に気づいて、恥ずかしそうにバスタオルを顔からはずした。 「お母さん、だって今急に変なこと言うからッ」  キッ、と、娘の顔に戻った路実が慄然として言うと、引きずられたか、母の方も女将では無く、母の顔に戻っていた。いつもであれば、『女将と呼びなさい』と言う母も、そこについては触れずに、一番言いたかっただろう事を言った。 「だってほら、湯崎館の究太君、まだ独身なんでしょ?」  湯崎究太の名が、母の口から出る。路実は、今朝方見た夢を思い出していた。あの夢は、ちょっとエッチな気持ちになっている時にも見る。何故にどうしてこのタイミングで、と、路実は自分が少し情けなくなった。
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