プロローグ

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プロローグ

 冬、降り積もった雪が、道を塞ぎ、泥と混ざって、逃げ惑う者達の足を遮る。背後からは炎が迫り、城の者達は皆、散り散りに逃げていた。  ふと、思い出したように足を止めると、既に炎に巻かれた城を、愛おしい者が滅びる様を、下女のぬいは、託された赤子を腕に抱いてキッと目を開いて見ていた。  この姿を、記憶し、赤子に伝えることが、ぬいの主に託された役割だった。それは、ぬいがこの先生きていく為の道しるべでもあった。 「お方様……」  一度だけそうつぶやいて、ぬいはきびすを返し、全力でかけはじめた。主との約束を守るために。 --  炎上する館で、『お方様』である、直刃(すぐは)の方は、衣を解いていた。眼前にいるのは夫である四郎のみ。二人は、残された生者としての時間を、体が無くてはできない事をする事に決めているかのようだった。  まだ、二人のいる場所は炎には遠かったが、遠からず火に巻かれて絶命する事はわかりきっていた。しかし、二人は逃げだそうとは思っていなかった。  炎への恐れよりも、今は互いしか見ない事に決めていた。戦の事も、城が落ちる事も、何もかも。  四郎は、火事から逃げる事よりも、妻の裸体を愛おしむ事に決めていた。周囲は熱く、夜だというのにほの明るかったが、その明かりを受けて、直刃の体は白く輝くようだった。  四郎が妻の体へ触れようと手を伸ばす。滑らかな肌を、何度も愛おしんだ手触りを、最後の一息まで味わうために。  妻も、時間を惜しんでか不要にじらす事はしなかった。  死を前にした恐怖よりも、互いを求める気持ちが勝っていたのか、直刃の動きは大胆だった。  袿を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になった直刃は、夫にまたがるように座り、馬乗りになって夫の襟元を緩めた。どちらの体も熱を帯びて熱いのに、直刃の指先は冷たく、触れられた四郎は思わずうめき声をあげた。 「あなた……」  瞳を潤ませ、淫蕩に微笑む直刃は、四郎が今まで見た中で最も淫らで、そして美しかった。  吸い込まれそうな相貌を真っ直ぐに見つめ返し、四郎は直刃を引き寄せて、その唇を吸った。  互いの唇の柔らかさを確かめるようだった動きはすぐに舌の絡み合う激しいものに変わった。上体を起こした四郎が直刃の背に手を回すと、直刃は白い腕を四郎の首に巻き付けた。  この熱は、体の内から湧き上がるものなのか、それとも天井を焦がす炎のせいなのか  四郎の指先と舌によって奏でられる、直刃の甘い呻きと、高まる鼓動と相まって、二人は舞っているようですらあった。  求め合う二人が、より高みへと登りつめようとした刹那。  ……スマホから流れるアラームの音で永戸路実(ながとろみ)は目を覚ました。見慣れた天井、着慣れたパジャマ。  天井を焦がす炎も、睦みあう男女の姿はどこにもなく。激しい鼓動だけが、熱の熾火のようにくすぶっているだけだった。  物心ついた時から、何度となく見続けた夢だった。その行為の意味のわからない無垢な少女だった路実も、すでに二十歳を大幅に超えて、三十の文字が気になりだし始めた、世間で言うところのアラサーだ。  夢の中で、女は男から『すぐは』と呼ばれ、女は男を『シロウ』と呼んでいる。土地の伝説、岩見山城陥落の悲劇を、今では路実も知っている。武田側についた城主砥樫晃永と、その郎党で上杉方についた湯崎興朋。  岩見山城落城をもって滅亡した砥樫一族と、主を売り渡した結果、利権を手にした湯崎家の伝説は、ここ、砥炉喜温泉に生まれた者ならば、誰もが知っている昔話だった。  路実の家、永戸家は湯崎同様 湯守であり、武田側に着いていた。主である砥樫氏は断絶の憂き目にあったが、武田側についていたにも関わらず永戸家が存続を許されたのは湯守であったから、とも伝えられている。  本能寺の変の直前、武田家は滅亡し、上杉が関ヶ原以降転封してこの地を去っても、湯崎家は今だに町長を排出する名家として君臨し続けている。小さな町の事ではあるが。  一方路実の生家である永戸家の方は……。  路実は、しばらく呆然とベッドに横たわり天井を見つめていた。最近になって、路実はある違和感に気づいていた。年頃の時分、路実はこの夢はもしや前世の記憶なのでは無いだろうかと思っていた。だが、最近になって思うようになったのは、微妙な視点のずれだった。  もし、自分が女……直刃(すぐは)の方の生まれ変わりだとしたら、その視点は彼女と同一であるはずなのだ。  けれど、路実はすぐはの方の形のよい乳房も、白く眩しい肌の輝きも覚えている。自分で自分の体つきを、そんな風に客観的に記憶するものだろうか?  だから、路実はこう考える事にした。自分なりに昔話を元に話を捏造しているのだと。祖母が語ってくれた昔話が形を変えて、まるでその場にいるような臨場感をもって夢として繰り返されているのだと。 「あー……」  ベッドの中でうめくように路実は声をあげた。  だったとしても、自分はどれだけ早熟なのか。恥じるようにうめいた後に、もう一つ考えた。それこそが、記憶の捏造なのか曖昧になるという根拠、相手の男、夢の中ですぐはが『シロウさま』と呼んでいた男の顔が、見知った男のものでは無かったからだ。  ベッドの中でぼんやりしていると、もう一度スマホのアラームが鳴り出したので、路実はあきらめて起き上がり、アラームを止めた。さすがに起床をしないとまずい。  路実はベッドを出て、もそもそと着替え始めた。
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