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ぱち。
スイッチが入ったみたいに、瞼が開く。視界の白さは……シーツの色。辺りはシンとしている。期待した波音は聞こえない。
「やっぱり、ここか」
起き上がり、失望を呟く。蛍光灯が降り注ぐ、変わらない景色。レンジとガスコンロが消えた、自分の部屋だ。
つまりは、これが現実なのだろう。僕の脳が記憶を総動員して造り上げた虚像だとしても――暴けないのであれば、同じことだ。
無くなった物リストを作ろう。
何か目的を見つけて動かないと。無目的な生活は、人の精神を静かに蝕む。
シャワーを浴びて、着替える。クローゼットの中身も若干足りない気がするが、確信は無い。
床に放り出したままのノートを拾い、ペンを取る。
まずは――。
「レンジ……、あれ」
ペン先を白紙に押し当てるが、そこから進まない。
「……あれ」
『レンジ』。頭の中で繰り返すのに、手が途方に暮れる。何だ、これ。
乾かしたばかりの頭から、汗が滲む。
「レンジ、だよ! 何で!」
書けない。簡単な片仮名なのに。どんな形をしていたのか、まるで分からない。いや、平仮名もだ。
「『レ』、だろ?! どうしたんだよっ!」
文字が、思い出せない――。
恐ろしい予感が、脳裏を過る。
途端に背中が寒くなる。怖い。
ガタガタ震える手で、ペンを握り直す。死刑宣告を受けるか否かの瀬戸際の気分だ。
「な、か、た……す、ぐ、る……」
声に出して、書き出そうとするのに――一文字も分からない。
「なかた、だっ。な、か、た、だろ!」
人生で一番長く付き合ってきた自分の名前が書けない。あ音ばかりの名字と、う音だけで構成された名前を、センスがないとふて腐れたこともあった。そんな印象を刻んでいる筈の自分の表記を思い出せないなんて、そんな馬鹿なことがあるか!
「う、わあああぁっ!?」
頭を抱えて、蹲る。
困惑ではない。言い様のない恐怖に、パニックになった。声が枯れるまで、全身で叫び続けた。
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